□□□先生の彼氏□□■2



黒板に名前を書く後ろ姿に、特に感想は持たなかった。
取り立てて言うならば、姿勢の良さが印象に残る。昨今は若者の方が、老人達よりも背中を丸めて歩いている。
真っ直ぐに伸びた背骨が『若さ』の象徴であるとは言えないが、縮こまったそれを見るよりかは数倍マシだろう。

それ位の第一印象だった。
しかし、ちらりと視線をやったきり、再びプリントに眼を落とした寿也の頭の上に。

―――その声は降ってきた。

「今日から、このクラスの副担任になる茂野吾郎だ。部活は野球部の方を手伝う事になっている」

低めの声は、ぶっきらぼうな言葉使いと不思議な甘さが同居している。だが、寿也の重たい視線を持ち上げたのは。茂野吾郎の“声“ではなく、『野球部』という言葉だった。
ただの副担任であれば、たいした接点を持つ事はない。しかも代用の教師であるのだから、顔と名前さえ知っていれば、用は事は足りる。
しかし野球部に関係しているとなれば、話は別だった。
それは寿也自身が野球部に所属しているためでもあり。放課後も顔を合わせるとなれば、そうそう無関心を装う訳にもいかない。




内心の面倒くささを押し隠して目線を上げると、射抜くようにこちらを見る瞳に感覚が震えた―――

(こいつ―――!)

時間にしたら、それはほんの数秒だったろう。
僅かに瞬きをした間に、彼の視線は寿也から外れていた。
だがその時から、説明できないような感覚が寿也を支配したのだ。

奇妙な浮遊感と不快感をないまぜにしたような―――

初めて感じるその感覚を、一般的には何と呼ぶかを寿也は知らない。



(だから、恋は落ちるものなのです。)



□□□


職員室に戻った吾郎は、早速、渡された名簿をチェックしていた。
1年余りの短い期間だろうが、ここが自分の教員生活のスタート地点なのだ。手を抜こうなどとは、更々思わなかった。
樫本に紹介された受け持ちクラスは、高校生らしい活気に溢れていて、どこか羨望を覚える。
若さというものも、振り返ればキリが無い物だ。それが戻らないものだからこそ、懐かしいと判っていても。他愛もない考えに浸りながらも、吾郎の作業はよどみが無かった。

一人一人の名前にフリガナをふって、席順も確認する。
単純な作業を繰り返しているうちに、一人の名前の上でペンが止まった。

『佐藤寿也』

その名前に、どこか聞き覚えのある気がして、もう一度座席の確認をする。
後ろから2番目、窓際。
ふいに、自分を見つめる冷めた視線を思い出した。

(ああ、あいつか・・・)

そういえば、樫本から個別にされた説明の中で。かなり優秀な生徒で、生徒会の副会長もやっていると聞いた覚えもある。

(学業が優秀で、人望も充分か。)

ただ、そんな評判と自分に向けられた冷めた視線は、ひどく不釣り合いな気がした。
それが何からくる物かと訊かれれば、勘としか言いようのない物だったが、それでもその思いは拭い去る事も出来ずに吾郎の中に居座った。

『佐藤――、寿也。』

問題が無ければ、気に掛ける事はない。そうと解っていても、それとさせない何かが彼にはあるらしい。

「佐藤寿也・・・、か」




□□□



終業のチャイムの音が響いた。
校庭を横切っていく一群は運動部だろう。職員室の窓から見える並木道を歩いているのは、帰宅する生徒達だ。
部活の顧問になっている教員は、それぞれの活動場所に向かい。それ以外は思い思いの場所で残務をこなす。
着任早々、高校時代の経験をかわれて野球部のサポートをする事になっていた吾郎は、校庭に向かった。
グランドに着いた頃には、部員達のアップが始まっていて監督の声も聞こえてくる。

「こちらが、きょうから指導に加わって下さる茂野先生よ」
一列に整列させられた部員達に、吾郎は紹介された。
吾郎と同年代の早乙女静香という女性が、ここの2軍監督だ。紹介された当初は、女性の監督という事で珍しくも思ったが、知識の豊富さや指導の確かさは目を見張る物がある。トレーナーの早乙女泰造とは兄妹というのは、後で聞いて随分似ていないもんだと遺伝子の不思議も感じていた。

軽く頭を下げ、部員の顔を見ると、見覚えのある顔がいくつかあった。その中には、もちろん、あの『佐藤寿也』の顔もある。
相変わらず感心のなさそうな表情でこちらを見ているが、かといって視線を外す事もしない。
――冷たいのに熱い。
矛盾した表現だが、それ以上に彼の視線を表す言葉は思いつかなかった。


「茂野先生は、こちらを御願いします」
「あ、え、はい。今、行きます」
涼しい声に呼びかけられて振り向く。
その時になって吾郎は、自分の視線も寿也を追い続けていた事に、彼は初めて気がついた。



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