まだ少し肌寒い大気が身体を押し包む。
新しい旅立ちにふさわしい、澄み切った青い空。雲は一片も浮かんでいない。
今年は少々寒い日が続いたせいか、正門の脇に並ぶ桜の蕾が綻ぶにはまだ間がありそうだったが、これが開ききった時の見事さは容易に想像がついた。
伝統を刻み込んだような、厳めしい構えの正門の前で大きく伸びをして、吾郎は第一歩を踏み出した。



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―――恋とはするものでなく、落ちるもの(copyright by 江國香織 『 東京タワー 』)



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■■先生の彼氏■■




私立海堂高校は、神奈川県下でも屈指の高校として全国的に有名だった。その『海堂』ブランドを飛躍的に高めたのは、ここ数年に渡る高校野球における活躍である。
新設の高校がその名を高めるためにスポーツを用いる事は、常套手段なのではあるが。それを短期間で成し得た点においては、海堂はとりわけ「優秀」だったともいえよう。
もっともこの学舎を選び、通う生徒達にとっては、そんな手段(こと)はさして重要な事でもない。

彼らにとっては、そんな事よりも目下のところ重要な話題があったからだ。



「なぁ、聞いたか?産休の清水の代わりに、新しい先生が来るってさ」
「ほんまか?ごっつう美人の先生やったら、ええんやけどなぁ」
HR前の一日で一番ざわついた時間。無遠慮に机の上にのせられた足を、勢いよく雑誌がはたき落とした。
「・・・痛ってぇ。」
「僕の机の上に足をのせるなんて、なんだか良い御身分だね、三宅。」
「うわ、ちゃー、ここ佐藤の机だったんか!・・・すまん、すまん」
冷めた眼で見つめられると、さすがの三宅も余分な口は叩けないらしい。
クラス内では、温厚で優秀な生徒として通っている『佐藤寿也』の素顔を知っているのは、同じ野球部員でも数名しかいない。三宅に話題を振っていた元凶の泉も、さりげなく視線を外している。
――火の粉の降りかかる前に、自分だけはしっかり逃げる算段らしい

「い、いや、なあ。佐藤は知っとるか?」
現状の好転を狙ってか、三宅が寿也にも話題を振ってきた。
「ああ、新しい先生の事?」
あ、やっぱり、佐藤は情報が早い。と感心しきりの外野を気にも留めず、寿也は鞄を開けて、さっさと一限の用意を始める。
彼にしてみれば、担任でもない新任教師なんて、なんの役にも立たない『ただの大人』だから、考えるだけ時間の無駄だった。
それでもまだ騒ぎ続けるクラスメートを一瞥すると、騒音を遮断するように、広げたプリントに目を落とした。


ガラリと扉が引かれて、出席簿を片手に持った担任の樫本が教室に入ってくる。教壇に立つ長身は、いつも通り教室内を見回すと、まだ開けたままのドアに無造作に声をかけた。
「おい、入ってこい」
「・・・ああ」
樫本に負けないくらいぞんざいな返事が聞こえた。耳障りの良い低い声は、明らかに男性のもので。それを耳にした前列に座る生徒達から、ざわめきが教室全体に広がっていく。

入ってきた男は、身長も樫本に負けていなかった。
教壇にこそ上がらなかったが、担任の隣に控えていても体格の良さは、はっきりとしている。樫本と2人並ぶ姿は威圧感さえ与えた。
だが、そんな事はこの年頃の子供達には、さして効果をあげる事はなかったらしい。口々に『でけぇー』だの『あれ誰だよ』だの、銘々が好き勝手に声を上げている。
「ほら、黙れ。お前ら、産休に入った清水先生の替わりに、今日から副担をしてもらう先生を紹介するぞ」
出席簿で教卓を叩く音と、40人余りの雑談にも負けない大声で樫本は怒鳴ったが、ざわめきは早々収まる様子は見せなかった。諦めたように樫本は隣に向かって、軽く顎をしゃくってみせる。
「おい。こっちに上がれ、茂野」
『茂野』と呼ばれた代休教師は、黙って教卓に上がると白墨で黒板に名前を書き始めた。

『茂野吾郎』

少し右上がりの癖のある字が、大きく黒板に踊り出す。
軽く手をはたいて粉を落とすと。『茂野吾郎』は教壇からクラス全員に向き直った。



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