母親がいない日の朝食の支度は、いつも寿也の役目だ。
自分だけだったら、トーストにコーヒー程度で軽く済ませるが、今朝は一人じゃない。
丁寧に煮干しで出汁をとったみそ汁には、定番の豆腐と若布。香りには刻んだ小葱を散らす。
炊きたての白米をどんぶりによそって、芥子をきかせた納豆と海苔。卵焼きは、意外にも甘くないのが好みだというので、甘さを控えただし巻きを作ってある。

テーブルの上に、綺麗に並べ終わったところで時計を見れば、時間も頃合いだ。




階段を駆け上がって、寿也は部屋に向かう。
浮き立つ心を抑える事ができないのは、いつからだっただろう。景気の良い音をたてて、ドアを開ける。

「起きてよ。朝ご飯の支度ができたよ。今日は練習もあるんだろ!!」
「うー、・・・ん」
毛布の下から覗く、黒いくせっ毛に触りたい衝動をなんとか抑え込む。
「ほら!!起きなよ!」
「・・・・・・、んー、もう、ちょっと・・・」
後、5分。いや10分。と哀願する声に流されそうになりながらも、寿也は心を鬼にして、
もそもそと動く毛布を無理矢理はぎとった。

「だから、遅刻するだろ!!起きなきゃ駄目だって!!」

「頼むよ、トシぃ・・・」

「駄目だって!ご飯も冷めるよ」

「・・・うう・・・、起きる・・・」
漸く、のろのろとした仕草で起きあがり始めた彼に、寿也はいつもの締めの言葉をかけて台所に戻った。

「ちゃんと、顔洗ってから来てよね、兄さん」



彼の兄、茂野吾郎が台所で満足げに朝食を頬張るのは、それから10分後の事だった。



□□□Ask, and it shall be given to you□□□




「くっそー、この坂さえなけりゃあ、遅刻なんかしないぜ!」
全力でペダルを漕ぐ努力が報われるか否かは、まさに紙一重の時間帯だ。
「別にこの坂があっても無くても、関係無いと思うよ」
兄さんが寝坊をしなければ、こんなに急ぐ必要なんてないんだから。自転車の後ろに腰掛ける寿也から、さらっと言われて。吾郎は唸り声をあげた。
「ぜってぇ、あの上手い朝飯のせいだ!お前があんなの作るから、ついつい、ゆっくり喰っちまったんだ・・・ぜ!」
漸く坂を登り切って通学路で一番高い場所にたどり着く。ここまでくれば後は学校までの道を下るだけですむ。が、そもそもの原因を棚に上げて喚く兄に、弟は背中で深い溜め息をついた。
「じゃあ、もう作るのやめようか?」
勝手に好きな物食べれば良いよ。あ、弁当も自分でどうにかしてね。とまで言ったところで、自転車が急停車した。
「え、何?なんで止まるの?」

「駄目だ・・・」
「へ?」
後ろから前を覗き込むと、校門まではまだ距離がある。早くしなければ、冗談抜きに遅刻になってしまいそうだ。
「ちょっと、兄さん!まだ学校ついてないだろ。どうしたんだよ?」
しびれを切らせた寿也が、自転車から降りようとした瞬間。ぐいっとペダルが踏み込まれ、二人乗りの車輪は、今まで以上の早さで回転を始めた。
「弁当なしも、朝飯なしも、絶対ぇに嫌だ!」
遅刻はさせないから、それだけは取り消せよな。とぷっくり頬が膨れている。

(か、可愛い・・・!!)

そんな顔されたら、今日の夕食は気合いが入っちゃうじゃないか〜。等と少々爛れた思考に入りかけて、寿也が目の前の腰に抱きついたところで自転車は止まった。

「よっしゃあ、間に合ったぜ!じゃあなトシ!!」
弟の手作り弁当を下げて、すでに吾郎は駆けだしている。後に残された寿也は、毎度の事ながら、困ったような笑みを浮かべつつ駐輪所に足を運ぶはめになった。
幸い、さっきのラストスパートのおかげで、これ位の時間の余裕は残っているし、遅刻もしないですみそうだ。兄の姿が消えた校舎の玄関を見やりながら独りごちる。

(これも、有言実行ってやつなのかな・・・)



□□□



ここ、海堂高校において茂野兄弟の存在はこのうえもなく有名だった。
兄の吾郎3年生と、弟の寿也2年生。ともに名門野球部のレギュラーで、顔も良い。
吾郎は、その大胆な言動と行動力で校内でもお祭り大将のような存在だったし、高校球界でも屈指の投手。対する寿也は、物静かな雰囲気こそ兄と違っていたが。やはり抜きんでた野球の才能で正捕手の地位を獲得し、勉強においても優秀な成績を修めていたため、学年を問わない人気を集めている。

ただ、こんなにも優秀で運動神経も良く。天は二物も三物も与えたような寿也にも悩みはあった。




―――その悩みの種が、今、まさに彼の目の前で夕飯を食べていた・・・。

「あー、やっぱ寿の飯が一番うめぇな!」

食後のお茶を飲んで、満足げに笑う吾郎の目の前に林檎を乗せた皿が出された。もちろん綺麗な“うさぎさん”にカットされている。
子供扱いすんなよなー。と膨れながらも、すばやく手は伸びる。
「今日の練習も調子よかったみたいだね」
瑞々しい音を立てて、果肉を囓る白い歯を眺めながら。向かいに座る寿也も林檎に手を伸ばした。
「は、あ?ああ、おえ、いま、ぜっこふちょうだぜ!」
「食べながら喋らない!」
どこをとっても年上とは思えない吾郎の行動に、寿也は本日何度めかの溜め息をついた。
(なんでかな・・・)
「お、最後の一個!寿喰うか?」
(なんで、なんだろうな・・・)
「返事しないなら、俺が喰うからな!」
(どうして僕は・・・、そして兄さんは・・・)

「とーしーや!」

「・・・え!?」

ちょっとした物思いは、目の前に突き出された林檎で中断させられた。細心の注意を払って見事な“うさぎさん”にされた林檎は、頭の部分が綺麗に囓りとられている。
「ほら、半分喰えよ!」
わざわざ残しておいてやったんだからな。と口元に差し出されたそれを、寿也は複雑な思いで見つめていた。
「・・・う、うん」
フォークの先のうさぎの下半身が、寿也の口の中に消える。しかし、彼の舌が感じるはずの爽やかな甘みは、何故だか今日は酷く苦い物に感じられていた。

――この兄は、本当にどう思っているのだろう。


「先に、風呂もらっていいか?」
気づけば、食べ終わった皿をシンクにおいて、吾郎は風呂に入る支度をしている。
つけっぱなしのテレビでは、お笑い番組が流れていたが、奇妙に乾いた笑いが気にくわなくて寿也はテレビを消した。
「兄さん、風呂の後は・・・」

「・・・・・・好きにしろよ」

振り向くことなく部屋を出て行く背中は、何を考えているか寿也には読めなかった。
吾郎の考えは、単純なようでいながら、時々全く読めなくなる。
兄弟として過ごしてきたこの年月も、二人の関係に他には語れない変化が生まれてからも、

―――それだけは変わらなかった。



□□□next→