1軍との試合に奇跡的に勝利をし、その喜びに浸る少しの猶予もなく地獄に落とされた。
それは、『地獄』なんていう生ぬるいものでさえなかった。
裏切られた怒り、突き放された悲しみ。それ以上に表現のしようも無くなったうねる様な感情の全てを「親友」というオブラートに隠して、寿也は吾郎を見送った。
そうして彼を除いた日常が始まったが、それは至って順調で穏やかな物だった。
事実、海堂高校野球部は過去から現在に至る確執も、部内の人事も刷新されて新しい空気に満たされていた。
過去から解放された大人達と、希望に満ちたチームメイト。
改革を成し遂げた本人がいなくても、何の問題も無いのだ―――寿也以外には。







―――ミットを抉るように眉村の球は飛び込んでくる。

一括りに『ジャイロボール』といっても、榎本の投げる球と眉村の球は違う。
そして一番長く受けていた吾郎の球とも、違って、いた。
モチベーションにひどく左右される吾郎の球と比べると、眉村の球は淡々とさえした印象だ。
だがそれは、けして“大人しい”という訳ではなく、むしろミットを押し込む瞬間の熱量は、3人の中で随一かもしれないと寿也は思っていた。

軽いアップのためのキャッチボールが終わると、そろそろだというようにサインが送られる。

―――本気の球が来る。

飛び込んできた球を受ける充実感は、その時だけでも余分な事を忘れさせてくれるから。

(今は、それだけで充分なんだ。)

大気を震わす音は、どこか懐かしく身体を包み込むようだ。
マウンドでボールを受ける、その瞬間の至福に寿也はゆっくりと意識を浸らせた。








痛みは感じなかった。
ただボールを掴んだ瞬間、ミットの中で急速に握力が抜けてゆくのが判った。
何か掴んでいるようで、何も掴んでいない。
酷く気持ちが悪くてしゃがんでいる事さえ出来なかった。
乾いた音をたてて硬球がベースの前に転がってゆくのが見える。

(早く拾わないと・・・。)

伸ばした手の先がボールを掠めたが、届かない。

(冷たい・・・。)

ざりっと不快な音がして、マスクの隙間から入り込んだグランドの土が湿った香りをたてる。

(冷たい・・・な。)

「気持ち・・・わる・・・。」
駆け寄ってくる足音が、誰かを認識出来ないまま寿也は眠りに落ちた。



◇◇◇



白い光に網膜を焼かれる気がして、なかなか目蓋を上げる気になれない。ようやく目を開けたのは、喉の渇きだけはどうする事も出来ないと気づいたからだ。
そうして目覚めた世界においては、予想通りの明るさに顔を顰める事しかできなかった。



「気がついた?」


「早乙女トレーナー・・・。」

柔らかな口調に不釣り合いな、骨太な顔が心配気に見下ろしている。
「どこか痛いところは無い?痛くなくても、気持ち悪いとか寒いとか?」
早口でまくし立てられたが、まだ覚醒しきっていない頭にはぼんやりとしか伝わってこない。


「・・・とりあえず、大丈夫みたいです・・・。」

「本当に?」

「ええ、少し目眩がしますけど、特におかしい所はありません。」

乾いた喉に声が貼り付くようで、無意識に首に手を当てた。
ゆっくりと起きあがる背中に、早乙女が傍らの枕を挟んでくれる。――全く、気遣いは並の女性以上だ。それでも尚、不安を滲ませた瞳で見つめられると、些か居心地が悪くなって寿也は視線を窓に向けた。
あれから何時間たったか判らないが、日はすっかり暮れてしまったようだった。


「林檎剥いてあげましょうか?」
「え、あ、いいです。そんなに腹も空いていないので・・・。」
「遠慮しちゃってぇ〜。相変わらず可愛いわねぇvv」


(今、語尾に何がついた・・・?)
身体をくねらせ、頬摺りせんばかりに顔を寄せてくる早乙女に、薄ら寒いものを感じて、寿也は膝の辺りの毛布を抱きしめた。
後ずりしても、せまいベッドの上では殆ど下がれるスペースが無いのが哀しい。

しかし、そんな寿也を尻目に、早乙女はガサガサと足下の紙袋を探っていた。

「ちょっと待ってなさいなv」

軽いウィンクと共に用意された果物ナイフと林檎に目を見張ると。手に比べて小さく見える鮮紅色の球体は、くるくる回転しながら瑞々しい中身を晒していった。
無骨な指先から作られたとは思えない繊細さで、果実は均等に切り分けられ、皿に盛られる。
細い銀のフォークが添えられた頃には、仄かに漂う爽やかな香りに、寿也の腹がくぅと鳴った。

「え!」

「あら。」

頬から耳にかけてゆっくりと朱を昇らせる寿也に、世話好きのトレーナーは弓なりに眉を曲げると皿を差し出した。
(今度は、気恥ずかしさから目を合わせられない寿也に、『食べさせてあげようかしら?』などと早乙女が考えていた事は、幸い(?)本人に勘づかれる事は無かったが。)

「・・・ありがとうございます。」

左手で、皿を受け取ろうとした瞬間の事だった。

乳白色の陶器は、寿也の指先をすり抜けるように下へと落ちていく。

割れた皿に混じって、砕けた林檎が床に散らばった。

「す、すみません!!」

「いいから!・・・佐藤くん、少し待っていてくれる?」

慌ててベッドから降りて、皿を拾おうとした彼を早乙女が止めた。
左手首を握る力と、先程までとうって変わった強ばった表情に、寿也の身体にも自然と緊張が走る。
散らばった皿をそのままに「ちょっと試してみたいの」と言って、早乙女はゆっくりと寿也の左手をマッサージし始めた。何かを見つけようとするかのように、手首から指先へとそれは丹念に進められる。

「痛い所は無い?」
目覚めた時と同じ問いを繰り返されて、頭を振る。痛みが無いと判ると、次は拳を握るように指示を出された。
言われた通りに左手を握り、ゆっくりと広げる。別段、違和感もなかったので隣を見ると、それでもまだ早乙女の表情は厳しいままだった。

「特に・・・、何もありませんけど。」

「じゃあ、これを持ってみて。」

紙袋には、まだ数個残っていたのだろう。
差し出されたのは、まだ剥かれていない林檎だった。
蛍光灯の灯りを反射して、作り物めいたそれに手を伸ばすと、寿也は無造作に掴もうとした。

「・・・あれ?」

指先に固く冷たい感触があったかと思うと、林檎はそのまま引力に惹かれて落ち、床を転がってゆく。確かに掴んだはずなのに、左手は床に転がった物の形を残したまま固まっていた。
どくん、と心臓が跳ね上がる。
耳の中をごうごうと血液が流れてゆく音が、はっきりと聞こえた。

「佐藤くん・・・、あなた・・・。」

早乙女の声が、どこか離れた所から響いてくる。

早乙女の声が、どこか離れた所から掠れながら響いてくる。無様な形で固まった左手の上に、ぽとりと滴ったのは自分の汗だろうか。

スチールのドアが軋むような音を立てて、駆け出す早乙女を見送りながら。
寿也は、その背中に遠ざかる『彼』の後ろ姿をもう一度見た気がしていた。





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