◇◇◇


原因は不明―――
医師の下した判断は、結局のところそれだけだった。
あの練習以来、寿也の左手は日常生活に支障は無いものの、ミットを嵌める事は出来なかった。
1週間を経た今でも症状が改善される気配は全くない。
倒れた時に外傷はなく、原因となるような事は本人にも周囲にも思い当たらなかった。念のためお言われてCTスキャンも受けてみたものの。
結果は当然といえばそれまでなのだが、全く問題はなかった―――
それからは、スポーツ医療の権威と称されるような医師の診察も受けたし、針や気孔のような物さえ試しても見た。

だが、そのどれをしても、泰造のトレーナーとしても経験や熱意でさえも、現状においては寿也の左手の機能を回復させる事はできなかったのだ。




「いったい、佐藤の手はどうしたっていうんだ。」
「あの医者、ヤブなんちゃうか?」

夢島メンバーでもある、寺門・三宅の話す声が聞こえる。同時に聞こえた鈍い金属音は、大方どちらかがロッカーでも蹴り付けたらしい。
苛立ちは何もこの2人に限った事では無かった。秋季大会が終わったとはいえ、正捕手と目されていた寿也の問題は野球部全体の問題でもあるのだ。

「そのうち、何とかなるよ。」

「佐藤!そのウチってなぁ。暢気なことゆうとる場合じゃないで!!」

どこかのんびりとした寿也の口調に、三宅が食いついた。
確かに、事態は楽観できるものではなかった。
春の大会まで間近に控えたこの時に、寿也の不在は部として相当のダメージになる。選手層の厚さでは、近隣の他校を寄せ付けない海堂といえども、ベストのメンバーを組めないのは憂慮すべき事だ。
春の選抜が終わっても、その後には寿也達にとって最後の夏がある。



そして、その大会に―――『彼』が現れるはずだ。




部内の誰もが口にしないが、確信めいた思いは共通していた。
風の噂では、野球部の無い高校に進学したとか、野球部を創設したとか。切れ切れに耳に入るそれは、他人事のようで。
海堂というチームの力量をもってすれば、とるに足らない事のはずなのだが、部員の誰もが、そんな風に思う事はできなかった。



◇◇◇





練習に参加する事は出来ないが、今日も見学者の立場で寿也は部活に参加している。
寿也の視線の先には、マウンドに立つ一組のバッテリーの姿があった。
投球を始めた眉村の球を受けるのは米倉だ。こうして、離れたところから眉村の投げる姿を見ると、寿也は改めて彼と吾郎との違いを感じさせられた。
白球が、ミットに吸い込まれる瞬間の音が、大気を震わす振動が、どれもが違っている。どちらが優れているかという事などではなく、それは純然たる『個性』というものであって、それぞれが寿也にとって抗いがたい魅力を持っていた。
吾郎の球を受けるのと同じくらい、眉村の球を受ける事は、一人の『捕手』としての寿也の存在全てに値するといえる。
そして、それが出来ないという事は、寿也にとってこの高校生活自体が何の意味も持たない事を意味していた。

「もう、決めないといけないのかな・・・」

寿也の小さく漏れた呟きを耳にした仲間は誰もいなかったが、仮にいたとしてもその意味を正しく判断出来る者はいなかったかもしれないし、彼の頑迷さと一途さを覆す事は無理だっただろう。





寿也が一通の封書を携えて、早乙女監督の部屋を訪れたのは、その日の夕刻の事だった。



◇◇◇





「明日の休みは、予定が入っているか?」

唐突に話しかけられて、些か面食らった寿也は、海堂の誇る不動のエースの顔を見つめた。
方や学食のA定食を盆に載せ、方やきつね饂飩に親子丼といった炭水化物満載の組み合わせを持ったまま立っている。ダイエットを気にする向きなら決して選ばないであろう組み合わせも、一日の半分はグランドを駆け回る球児達の敵ではない。

「あ、・・・うん。特に予定は無いけれど・・・」
そうか、と頷く眉村の表情はマウンドにいる時と殆ど差がないような気がする。いったい、彼は自分に何を聞きたいのだろうか・・・。全く予測のつけられないまま、寿也が首をかしげていると、眉村は再び口を開いた。

「お前さえ良ければ、・・・つきあって欲しい」

「・・・・・・は?」

寿也が眉村の口から出た言葉を理解するまでには、たっぷり3分ほどかかった。その間、エースは相変わらずの鉄面皮で目の前に立っている。

「え・・・と、今、何て言ったか・・・」

問い返しながらも寿也の思考は

『・・・あ、そうだ。早く食べないと定食の唐揚げ冷めちゃいそうだよね・・・。眉村の饂飩も伸びそうだな・・・。』

などと、現状から著しく離れた場所にいた。

「だから、付き合って欲しい、と言ったんだが?」

都合が悪いのかと、不思議そうな顔で聞き返されると、やっぱり気のせいではなっかたのかと、益々寿也の口は開いたままになってしまった。
(場違いな考えかもしれないが、その時の寿也は、驚きと同時に『あの眉村にもこんな不思議がる表情があったのか』と、新鮮な感動も覚えていた)

「え・・・と・・・、何でかな?」

出てきた問いかけは、馬鹿みたいに短いものだったし、眉村の問いに対する答えにはなっていなかったが、そんな寿也の様子に眉村は全くといって良いほど無頓着だった。
靴を身に行くから付き合って欲しい、と再度言い直された時には、とりあえず納得した寿也だが、それが

『どうして、僕を誘ったんだろう・・・』

という事に、思い至るまでには、冷めた唐揚げを平らげて尚、まだ時間が掛かったのである。


◇◇◇


断っても、応じても、彼の態度は変わらなかっただろう。


隣で、新作のシューズを一つ一つ品定めをする眉村を見ながら、寿也の頭の中は、靴選びからはほど遠い所を漂っていた。

綺麗にディスプレイされた靴は、その用途やブランド別に陳列されている。新商品には目立つように鮮やかな色のポップが、お買い得な物はエンドに山積みになっていた。店に溢れる客は皆、楽しげにあるいは真剣な眼でそれらの靴を試している。
寿也がぼんやりと並べられた靴の列を眺めていると、どこかで見覚えのある一足に目が止まった。
自然に手が伸びて、その靴を引き寄せる。

(これは・・・)

見覚えがあるのも当たり前だ。手元の靴を見つめて、気づくのが遅い自分に、寿也の口元には自然と自嘲的な笑みが浮かんだ。

(だって、これは彼が履いていたのと同じヤツじゃないか・・・)

新品と使い込まれた物の差はあるとはいえ、デザインも色も全く同じタイプだ。

これと同じ靴を履いた彼と一緒にグランドを走った。
これと同じ靴を履いた彼と一緒にキャッチボールをした。
これと同じ―――



「おい・・・、佐藤」

「・・・・・・」

「佐藤、聞いているのか?」

「・・・あ!ごめん!!」

少しばかり、眉根に皺の寄った顔がこちらを向いている。左右の手には、それぞれ異なった靴が載っていた。大方、どちらが良いか質問されている最中だったのだろう。
自分の考えに浸りすぎて、一緒に出掛けている相手の事を置き去りにしているなんて、本末転倒も良い所だと、焦った寿也だが。話をなおざりにしていた分、どちらを選ぶかなんて意見はとっさに出てはこなかった。

「えっと・・・」

「・・・大丈夫か?」

唐突に目の前に差し出された問いに、ゆっくりと息を吐いて頷くと。ようやく眉村の眉間に寄った皺もほどける。

「まだ本調子ではないみたいだな」

「・・・うん、ごめん。せっかく誘ってくれたのに」

「いや、誘ったのは俺の都合だ」
佐藤が気にする事はない。と眉村がフォローしてくれた言葉が、寿也の心に痛い。
二人きりで出掛けるなんて初めての事だが。この短い時間は、眉村が寿也の事を気遣っている事を理解させるには充分なものだった。


「・・・ごめん」

小さく謝った言葉はきっと耳に届いていただろうに、聞こえない振りをした眉村の優しさへ。寿也はまた心の中で感謝した。



◇◇◇