あの眉村が、自分を誘いにクラスにまで来る事を疑問に思う事はあった。
特に野球部を退部してからは、野球以外に接点を持たない自分に会いに来るなんて考えてもみた事がなかった。
誘いの理由はいつも他愛のない事ばかりで、それでも最初は野球の話だった気がする。
短い話を交わす時期を過ぎたら、買い物、食事と、まるでフツウの男女の交際のような過程を経て、自然に関係が深くなった。

(『フツウ』、だって・・・?)

「何を、・・・考えている?」
眉村の言葉にはいつも無駄がない。寿也にも必要な事のみを伝え、聞いてくる。
「めずらしいね、そんな事を気にするなんて」
取り留めのない回想をしているうちに、浮かんだ自嘲を見とがめられたらしい。
質問に答えるかわりに、額を滑り落ちる滴を手で拭ってやると、頬の辺りの強張りが微かに緩んだ。
無言のまま伸ばされる腕に大人しく巻き込まれると、ベッドのスプリングがぎしりと悲鳴をあげる。
成長期の男子の身体を2人分支えるなんて、この寝台には随分と酷な話だ。
「・・・っつ、く、ん」
一拍おいてから背中から抱き込んでいる右手が、ゆっくりと胸元を探り始める。
「あ、明日の練習は早いんじゃないのか?」
「これくらい問題ない」
「くっ、・・・っ、はぁ、ぁ。」
黙れというように手の動きが忙しなくなる。長い指先に胸の先を摘まれて息が詰まりそうになった。そのうえ首筋に埋まる眉村の短い髪がくすぐったくて、逃れるように身をよじる。
「佐藤・・・・・・。」
ふいに左肩に固い物の感触を感じると、その箇所にちりとした痛みが走った。
「おい、跡残すなよ。」
振り返ると、眉村の綺麗に並んだ歯が肩から離れていくところだった。
「痛かったか?」
返ってきた答えは的はずれだったが、含まれる真摯な響きには確かな気遣いが感じられる。
「痛くはないけど・・・、そんなとこに跡が残っていたら体育の時・・・っ。」
ねろり、と噛んだ跡を舐められて文句は最後までは続かない。続けられていたとしても、結果に差はなかっただろう。自分の付けた跡を埋めるかのように、執拗に眉村は舌を這わす。
眉村の手や舌は、彼の言葉よりも遥かに饒舌だ。
どんなに固くまぶたを閉じても、網膜にちらつく残像と共に寿也の身体を追い上げる。

そうして、回りながら闇に吸い込まれてゆくのだ。
あの水のように。




□□□


始まりは、唐突だった。



授業が終わると、いつものように部室に向かう。
見慣れたピンストライプのユニフォームに袖を通すと、微かに土の香りがする。その匂いは眉村に、何故だか寿也の事を思い起こさせる。
今まで野球以外に特に心に留める必要を感じた物は無かったが、この『匂い』と連想させた『キャッチャー』の存在は、彼にとって不思議だが厭うような感情をよばない。
結局の所、眉村にとってグランドもキャッチャーも、野球をするために必要不可欠な物だからだ。
精度が良ければそれに越した事はないし、海堂が勝つためには『佐藤寿也』というキャッチャーの存在が必要な事は充分認識している。だがそれは、あくまで能力を認めていたという事に過ぎず、それ以上の必要性を眉村自身が感じた事は無かった。
だからこそ、彼には理解出来なかった。

あの男が海堂を去った時の、寿也の苦悩も悲しみも。

それは必要無かったから―――

ただ、野球をする事のみにおいては―――




その日、ブルペンでの軽い投球練習の後、ホームベースで低くミットを構えた寿也からは何の異変も感じられなかった。
肩を慣らすために放った10球程度の球を受けた後、キャップのつばを摘む軽いサインを送ると、キャッチャーマスクの向こうの瞳が頷く。
眉村も軽く頷き返すと、投球フォームに入った。

振りかぶった右腕を頂点に、全身の筋肉が連動して弾ける。
自分の全ての力は硬球に吸い込まれ。指先を離れた瞬間、白球は一つに生命に変わる。
唸りをあげ、大気を巻き込みながら走る、時速150キロの短い命。

「ストライーク!」

どしん、と衝撃の大きさを示す鈍い音と共に、それはミットに吸い込まれて無機物へと還ってゆく。

それはいつもと変わらない風景のはずだった。

「佐藤!?」
叫んだのは誰の声だったか、薬師寺だったのか、草野だったのか眉村も良くは覚えていない。ただ、ミットからこぼれ落ちる白球と前のめりにベースに沈む身体は鮮明に焼き付いていた。

「眉村!お前も、早ぅ来んかい!」

ホームベースから振り返った三宅が怒鳴りつけてくる。
ベンチから監督が飛び出してくる。倒れ込んだ寿也の回りには、あっという間に人垣が出来た。
連絡が通ったのだろう、担架がグランドに運ばれて意識のない寿也の身体が乗せられる。
チームメイトが口々に寿也の名前を呼ぶところを見ると、意識がないらしい。








それでも、眉村の足は、マウンドから一歩を踏み出す事はできなかった。



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