背中を冷たい汗が伝っていった。
薄闇の中で、寄せられた肩胛骨の下に藍色の影が一際くっきりと見える。
ゆっくりと舌をはわせると、微かな塩の味。この年頃の男にしては薄い体臭。
張り詰めた背中の筋肉は、素直に美しいと思えた―――



tarantella.



佐藤寿也の朝は早い。
野球部時代の名残で、欠かした事のないロードワークを5キロ。軽い筋トレを済ませると
汗を吸った薄い布地が肌に貼り付いた。身体から上がる蒸気が大気に溶けて消える。
見通しの良くなった街路樹には、見上げると端が茶色く捻れ上がった葉が1枚ぶら下がっていた。

寮の部屋に戻り、良く乾いたタオルで汗を拭うと。一連のトレーニングの仕上げに冷蔵庫から良く冷えた水を取り出す。
淡い色のついた人工のボトルに書かれた文字にたいした興味は湧かないが、喉を通る硬質の感触は嫌いじゃない。
水の銘柄なんて気にした事はなかったけれど、これは気に入っている。
たぶん―――

『これ、けっこう美味いぜ。』

ふいに、彼が「美味い。」と勧めてきた時の記憶が頭をよぎって、無意識にかぶりを振っていた。


◇◇◇


寿也には、時折こうして『彼』の存在を感じる事がある。
かつて、それはグランドの土の香りや、使い込まれた皮の手触りを通じて蘇る事もあったが。
今ではこうして何気ない生活の中で、ふいに現れる事の方が多かった。
机の上に乱雑に置かれた雑誌の中にも、窓際に置かれた植物にも、さっきのような水の中にさえ『彼』は現れる。
その浸食の深さに目眩を覚えながら、寿也はコップに残った中身をシンクに流した。
回りながら流れてゆく水の行く先は、パイプという闇の中だ。

(この水のように記憶も流し切れたら、どんなにかすっきりするかもしれない。)

何度も思った事を、また性懲りもなく考えている自分には、怒りを通り越して吐き気さえ感じるくらいだ。

あの日から、時間だけは淀みなく過ぎてゆく。
まだ陽光の眩しい頃に、この場所で見送った後ろ姿は今や記憶の底で澱のように沈んでいる。
それなのに、今日もこうして『彼』に囚われている自分に気がつくのだ。

「・・・くだらないな。」

なんで今更、彼の事を思い出す必要がある?



途端に、指先に残る水滴すら疎ましくなった。


◇◇◇



朝特有のざわついた気配の下駄箱を抜けて、教室のドアを潜ると、待ってましたといわんばかりに声がかかった。
「佐藤くーん、今日の数学のプリントやってきた?」
「そういうふうに聞いてくるって事は・・・」
軽くジャブを入れるフリをしながら聞いてやると、案の定、相手は拝むような仕草で頭を下げてきた。
「すまん!オンにくる!!」
「全く・・・」
わざと眉間に皺を寄せながら、鞄を開けてプリントを取り出す。物欲しげに伸ばされた手に、紙が触れる寸前。
「購買の焼きそばパンと卵サンドにコーヒー牛乳。」
にっこりと作られた笑顔は、表面上、見事なくらい悪意のない物だった。しかしその『笑顔』を向けられた当人には絶大な効果を発揮した。
「わ、わかった・・・。」


「それで、君もプリント忘れたのかい?」

逃げるようにプリントを持ち去る後ろ姿を一瞥して振り返ると、そこには憮然とした表情の眉村が立っていた。

野球部のエースというだけではなく、その均整のとれた長身と、無機質な表情は雑多な群れの中でもひどく目立つ。実際、他クラスでもある眉村には教室の至る所から、ちらちらと無遠慮な眼差しが向けられていた。

軽くため息をつくと、眉村は寿也の肩に触れた。
「・・・放課後」
簡潔で、むしろ簡潔すぎるくらいの誘いの言葉。
朝一番で誘われるなんて頻繁にある事ではないが、寿也を誘う時の眉村は必ずクラスにまで来る。意外なくらい律儀な性格は、思ったよりも居心地が良かった。
「判ったよ」
今日もまた、何気ない風を装って返事をする。
承諾を得た眉村が、長身を返して教室を出て行く姿を寿也は見送った。
微かに右肩が上がっているのは、彼の機嫌がいい証拠だ。

そんな誰も知らないような癖を覚えるくらいには、関係している。



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