【Don't cry baby】・1



【三橋廉】

晴れた日に降る雨を『天泣』というらしいけど、今は太陽なんて出ていない。

額を濡らし、顎を伝って滴り落ちる水はひどく冷たくて廉の身体を真の部分から凍えさせる。

「・・・ごめんなさい」

大通りの喧噪から取り残された薄暗い路地。人の気配はどこにも感じられない。目の前に俯せに倒れた人物の顔は写真で見たきりだ。本当だったら身体の向きを変えて、当人か確認しなければならなかったが、かじかんだ指がそれを拒否していた。

「ごめん・・・なさい」

足下を濡らす雨に混じって、ゆっくりと黒い染みが広がっていく。鼻をつく鉄の匂い。何度嗅いでも慣れる事が出来ないその匂いに涙腺が刺激されて、必死に堪えていた涙がこぼれ落ちる。低い嗚咽が喉から漏れて、それを切っ掛けに涙は枯れる事を知らないように廉の頬を伝っていった。


―――オレは貴方の事を何も知らない。だから謝る事しか出来ないんです。


「それでも、オレは・・・これしか、出来ないから・・・」


無意識に目元を擦っても、冷たい皮の手袋が水気なんて吸い取ってくれるはずはない。降りしきる雨が、頬を洗い流してくれる事にだけ感謝しながら廉は路地に背を向けた。振り向く事なんて出来なかった。そんな感傷がなんの意味ももたない事くらい廉にだって良く判っていたから。





【Don't cry baby】




「廉!お前、また泣いたのかよ!」
連絡をされていたホテルの部屋に戻るなり、修吾の手が乱暴に廉の目元を擦った。雨でぐっしょりと濡れていたから気づかれないかと思っていたが、赤く腫れた目元ですぐにばれてしまったらしい。
「ご、ご、ごめんなさい・・・」
寒さで白くなった廉の顔から一層血の気が引いて、青味がかった唇が震えている。髪の先からぽたりと落ちた滴が分厚い絨毯の上に丸い染みを作った。

「お、オレ・・・」
そして、そんな些細な事すら申し訳ないと言うかのように廉は俯いた。
「まったく、・・・謝るなって」
少しの間震える廉を見ていた修吾だったが、それは本当に僅かな時間だった。瞬く間に口調が柔らかくなって、俯いた廉の頭に乾いて気持ちの良いタオルがかけられる。柔らかい髪の毛を重たくさせていた水分を、修吾の指は慣れた様子で乾かして、廉もされるがままに身をまかせていた。

「ちゃんと拭かないと、廉はすぐに風邪ひくからな」

タオルがしっとりとなって役目を終えかけた頃に、それまで黙っていた廉の唇が微かに開いた。
「修・・・ちゃん」
「なんだ、廉?」
「オレ、今日も、ちゃんと・・・出来たよ」
「判ってる。廉はちゃんとやった」
だから安心しろ。と告げられて、廉の肩からやっと力が抜ける。

「良かった・・・」

向かい合う修吾の鎖骨の辺りにこつんと額を預けて、廉はほうっと息をついた。




□□□




廉が『組織』に入ってから何年経ったかなんて、当人ですら正確に覚えていない。入ってからの年月どころか『組織』の構成も、正式な名称すら廉は知らなかった。

一番古い記憶は路上での生活、そしてどこかの施設でのものだ。廉に物心のついた時にはすでに親の存在が無かった。
親を失った、あるいは親元を飛び出した子供達を回収する施設。そこに入れさえすれば食事も寝床も保証されて幸せに暮らせるのだと廉は信じていた。それ位路上での生活は辛かったから。寒さからも、耐え難い程の飢えからも、守ってくれる存在が廉にはいなかったから。
だから、ある日突然見知らぬ大人が現れて他の子供達と一緒に殺風景な建物に連れていかれた時も、廉は最初嬉しくてたまらなかった。これでもう、お腹が空く事も、寒さで震える事も無くなったと思ったから。


―――でも、結局は、何も、変わらな、かった・・・


施設の中は廉と同じ様な境遇の子供達でいっぱいだった。最低限の食事と衣服は支給されていたが、少しでも気を抜けば、僅かなそれはあっという間に他の子供達に奪われた。そうして元々気が弱く身体付きも細かった廉は、さして時間のかからないうちに他の子供達の格好の的になってしまった。
ここでも、廉の事を守ってくれる“大人”は一人だっていない。
施設の中でも路上とたいして変わらない生活を強いられながら、それでも他のどこにも行く宛ての無い廉はひたすらに耐える事しか出来なかった。

そうやってどれ位の日を施設で過ごしたのだろう。
ある時一台の車が施設の前に止まっていた。その車は子供達にとって初めて見る物では無かった。施設の外観とはあまりに不釣り合いな、いかにも恵まれた階層が乗るための車。
そして、それが施設に来ると子供達は色めき立った。

『おい、あの車が来たぜ!!』
『今度は誰なんだろうな?』
『今回は絶対オレだぜ!だってオレは強いからな!』
『何言ってんだよ!今日は絶対にオレの番だよ!』

あの車が来る度に、施設からは子供が消えていく。行く先を教えられる事は無かったが、狭い世界で争いながら暮らしている子供達にとって、それは夢の世界への扉のようにも思えていた。


―――また、あの車、来たんだ・・・


廉にとってもそれは同じだった。
施設に対する夢はあっという間に打ち壊されたけど、あの綺麗な車はそれだけですばらしい世界を体現しているように感じられたから。


―――でも・・・オレなんか、絶対、え、らばれないよ・・・


今まで連れていかれた子供達は、どの子供も身体が大きかったり、喧嘩に強かったり、頭がよかったり。廉にしてみれば、足下にも及ばないと思っていた子供達ばかりだった。
だから廉も自分が“選ばれる”ことなんか無いと最初から諦めきっていた。でも車を見れば“ひょっとしたら・・・”と期待してしまう自分がいる事にも気づいていた。


―――だったら、・・・見ない方、が良いよね


車が誰かを乗せて帰るまで、施設の敷地の隅で膝を抱えて蹲る。それが廉の思いついた一番の良策だった。






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