*お試し読み

  □傾城傾国〜天佑〜□  



深い井戸の底を覗き込むと、藍色の水がゆらゆらと光を反射していた。
麻の縄と吊された木の桶を慎重な手つきで下ろしていくと、やがて重い感触が伝わってきて水面に到達したのだと知れる。ここからが、難しいのだ。
傾いた桶の中が水で満たされたのを見計らってから引き上げるのだが、水の入った桶は、ひどく重たい。細い腕の力だけでは、到底持ち上げることも適わなかった。
「……っ」
荒い手触りの縄が掌を擦って赤い跡を残す。痛みで震える腕を叱咤しながら、自重も使って縄を引くと、ようやく手の届くところにまで桶が現れた。
(――よ、かった……。)
水を貯めておく瓶を井戸の傍に寄せると、ようやく注ぐ事が出来る。桶に手を伸ばすと、揺れた拍子に飛んだ水が、白い手を丸く零れて――。
「……っ、ぁ!」
「なんだ、また水汲みをしているのか?」
持ち上げようとした寸前に、桶を軽く攫っていった人物に淡色の瞳が見開かれた。事も無げに縁まで水で一杯の道具を持つと、あっさりと瓶に注いでいく。その間、狼狽える使用人の顔などお構いなしだ。
それどころか、瓶に入り損ねた水が跳ねて、黒繻子の裾に染みを作っている。
「……っ!…っ!!」
こんな事が他の女官に見つかったら大変な事になる。口さがない宮廷の小鳥たちが自分についてどんな噂をしても構わなかったが、それが故郷が蔑まれる事に繋がるのだけは避けたかった。
「…どうした?」

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