*お試し読み

  □フロラ□  

阿部隆也が家業の花屋を継いだのは、大学を卒業して間もなくの事だった。
昔からそうと決められていたわけでなかったので、昨今流行の花を勉強にパリ留学とか云々は、とんと縁がない。縁がないどころか、本格的に継ぐと決まるまでろくに花の勉強をした事も無かった。
そういう訳で、なんとなく(一悶着はあったけど)花屋になってからは、学生時代にも増して日々勉強の毎日なのである。

「なぁ、この花って今日入ってくるっけ?」
バケツの中にぱらりと残った二、三本の薔薇を見ながら阿部が振り返ると「たぶん」と答える花井の声がした。
「新しいの入ってくるんなら、これはサービス品の方に回す、か……」
些か開きすぎた感のある花弁は、薄い紅茶のような色が緩やかに波打っている。そういえば、これは(ジュリア)咲き始めると足が早い品種だったんだっけ、と阿部は独りごちながら薔薇を手に取った。仕入れた日を逆算しながらバケツから取り出す。
「花井、これ今日使っちゃっていいから」
運ばれている途中のアレンジメント用の籠に差し込むと、揺れた拍子に薔薇特有の華やいだ香りが鼻先をくすぐった。花井は少し顔を顰めて「乱暴に扱うなよ」と呟いたが、視線はすでに籠の中の花とショーケースの中を行き来している。この薔薇がどんな風に生けられるかは阿部としても非常に興味のあるところで、間違いなく楽しみの一つだとも言えた。
簡単な花束を作るので精一杯の阿部に比べて、花井の作るアレンジメントは花材のセンスと絶妙なバランスも相まって非常に評判が良い。
尤も、阿部はそれを建前にアレンジの仕事を彼に丸投げにしてしまっている訳なのだが、幸いな事に文句一つ言われた事が無かった。


□□□    □





「…っていう事が、昔あったよな。」
人の悪い笑みを浮かべた阿部が隣に目を向けると、シーツを身体に巻き付けた三橋がベッドの隅で、うう、と唸り声を上げた。尤も、どんなに身体を隠しても、最中よりも余程上気した頬が彼の羞恥の程度を披露してしまっていて、それがまた阿部の笑みを誘うのだが。生憎な事に、本人だけがその事実に気付いていない。
「最後は本当に、やられたよな……なにせ三橋からキ……ぶっ」
終わりまで言い切る前に、細い身体が飛び込んでくる。阿部の口を必死の形相で押さえつけている三橋の顔は、すでに頬を通り越して首筋から耳の端まで真っ赤に染まっている。
「い、いいいわないで!!」
目尻がほんのりと潤んでいるのを確認してから、阿部は「分かった分かった」と笑いながら三橋の手を外した。年下の恋人が可愛くて堪らない、と顔に書いてありそうな脂下がった表情は見せるのも三橋限定だ。この関係にすっかり溺れてしまっている自覚もあるものの、それを悟らせないのが阿部の大人たる所以だった。
「なんか、今日、阿部さん、意地悪だ……」
腕の中から見上げてくる紅茶色は、一年前と少しも変わらない。強いて変化を挙げるとするならば、それは角砂糖三個を溶かし込んだような甘さなのかもしれない。誕生日なのに、と唇を尖らせる仕草がまた可愛らしくて、阿部は思わず抱きしめる腕に力を込めていた。
「じゃあ、今からは意地悪一切なしでいくか?」
「い、今から……本当に?」
「ああ、本当に」
尖らせた唇の先を突くと、淡色の眉が嬉しそうにふわりと下がった。

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