□□□ラブレター□□□(大河+綾音)

雨天用の設備をもたない聖秀野球部では、雨が降れば部活は屋内のトレーニングかミーティングにあてられる。もっとも、筋トレ用の設備なんてものは無いのだから出来る事も限られているが。そんな中でも、吾郎や田代あたりはかなり熱心にやっている方だった。
それでも他の、殆ど初心者の部員達にとっては出来る事よりも出来ない事の方が多いのも現実で。結果として、雨の日の部活については『個々人に任せる』要するに自主練という形になっている。

そうして、今日も自分の組んだメニューを終えて廊下を歩いていた大河の目に、彼女の姿が飛び込んできた。


▼ラブレター


目に飛び込むというより、目に止まった。と言う方が正しいだろう。彼女は特に目立った動きをしたり、大きな声をあげたりした訳ではなかったから。
ただ、大河の目に彼女と彼女を囲む夕暮れ時の光景が、切り取られた一枚の写真のように見えたのだ。

「まだ残ってたのかよ、鈴木」
声を掛ける必要なんてなかった。自分の練習は終わっていたし、腹だって減っている。投げかけられた言葉に『清水』、と一瞬いとけない表情で呟いた後、綾音の顔はいつもの見慣れたマネージャーの顔に戻っていた。
「何よ、私が残ってたら悪かった?」
「別に」
「じゃあ、いいじゃない」
そう言われてしまえば大河に返す言葉など無い。姉である薫にしても、綾音と同じ野球部マネージャーの中井にしても、女という生き物に男は口では勝てないらしい。
思えば吾郎もそんな事をぼやいていたな、と妙に納得した気分で大河は綾音の前の座席の椅子を引いた。
「ふーん、それこの前の試合?」
彼女と向かい合わせになるように椅子をまたぐ。背もたれの部分に肘を預け綾音の手元を覗き込むと、そこには細かく仕切られたスコアブック。マネージャーである彼女が私用以外で残っているなら当然の事なのだが、やはり部活がらみか。
「そうだけど」
それがどうかしたの?と再び首をかしげられたが、何でも無いと首を振る。少し薄めの、だが綺麗な筆跡で並んだ数字が、今までの自分達の、自分と吾郎と部員達の軌跡かと思えば、多少なりとも感傷的な思いが湧くのも認めざるを得ない。ただそれは、『野球』に対してというよりも、ただ一人の存在を想う自分の感情。

「馬鹿みてぇ・・・」
思わず自嘲めいた言葉がぽつりと零れる。
「馬鹿ね」
「・・・・・・は?」
間をおかず断定された。言葉の空白の前後など全く意に介さぬように、綾音は断定した。
僅かに開いた口を閉じることも出来ず、呆然とした大河の前でパタン、とスコアブックが閉じられて鞄にしまわれる。続いて、綾音は一枚の淡い水色の便せんを机の上に広げた。チキチキと軽い音がして、細い芯が伸びる。


「お前さ、なんかキャラ違くねぇか・・・」
誰の前とは言わないけれども、でもどちらかと言えば自分に対してだけぞんざいな気もするのだが。そんな事を不満に思っているわけでもないけれど、あまりにも平然とした顔をされるのも癪に触る。

「清水は・・・さ、・・・なんて・・・言って欲しいわけ?」
途切れ途切れの問いかけは、綾音の視線が机の上に注がれているためだ。真っ直ぐな瞳で薄っぺらな紙を見つめる。細い芯で、スコアブックより遙かに丁寧に文字を綴る。その仕草で手紙の宛名は聞かなくても判る気がした。

「・・・・・・別に、何も言って欲しくねぇよ」

『そうね』と軽く相づちを打つ間も綾音の視線は動かない。
一行書くごと問いかけるように、自分の書いた文字を見つめるその瞳の色は大河にも見慣れた物になりつつある。

―――それは片恋の色。


「お前こそ、今時手紙なんて何者だよ」
メールだって、携帯だって持ってるだろ?連絡をとるためだったら、もっと便利で簡単なツールは至る所に溢れているのに、何を好きこのんでこんな手間のかかる物を。書き終えたのだろうか、便せんを綺麗に二つ折りにすると綾音は漸く顔をあげた。

「手紙だから良いのよ。忘れないもの、手紙だったら」

伏せられた睫毛が一瞬表情に薄い影を落して、すぐに消える。
「電話の声なんか一週間も聞かなかったらきっと忘れてしまう。あの人がどんな声でどんな風に話すかを。メールだって同じよ、ボタン一つで消えてしまうし第一情緒が無いわ」
「情緒?そんなもん気にしてんのかよ」
「悪い?これでも恋する乙女なのよ」
「はぁ?そうくるか!?」
確かに『恋する乙女』なのかもしれないが、こいつの態度は何かが違う。絶対に違う。やっぱりこいつの恋愛対象が俺でなくて良かった。奇妙な安堵を覚えるのも束の間、手紙を見つめるのと同じ視線を向けられて真っ直ぐには受け止めきれなかった。

「だって、覚えていて欲しいから」

―――少しでも、近くにいられないのなら尚の事。ただ忘れないでいて欲しい。

付け加えられた言葉に、ちり、と胸のどこかが焼け付くようだった。

「近くにいても少しも気にされないっていうのは辛いぜ」

「私だって、そう思ったから聖秀(ここ)に来たのよ」

―――でも今は、好きな人をそばで見る事ができるあなたが羨ましい。

「やっぱ、訂正する。俺よかお前の方が馬鹿だな」
「そんな事、言われたくないわよ!この意気地無し!!」
「意気地無しで結構だ!黙って見てるのもそれなりに覚悟がいるんだからな」
「・・・・・・判ってる」
「馬鹿だよ」

「馬鹿よ、・・・お互いにね」
納得したくなかったけど、ここは妥協するしかないだろうな。微かに頷くとふいに綾音の唇が小さく名前を綴った、『茂野先輩』と。

「え!?」
振り返れば、さっき自分が歩いていた廊下に練習を終えたらしい吾郎の後ろ姿が見える。ゆっくりと遠ざかるその背中を追いかけたいのに、何故だか身体は鉛のように重くて椅子から立ち上がる事さえ出来ない。
「・・・早く、行きなさいよ」
「・・・・・・」
何やってるのよ。と軽く睨まれても首を振る位がやっとだ。どうしてだか判らないけど怖くて堪らなかった。
「先輩、さっきあなたの事見てたわよ」
黙りこくった大河を見て、綾音は呆れたような溜め息をつく。
「・・・・・・マジかよ」
「誤解してるかもね、私達の事」
「冗談言うな!」
悪戯っぽく付け加えられて血の気が引いた。ガタンと大きな音が二人きりの教室に響いて、何かから解き放たれたように大河は飛び出す。

―――それだけはマジで勘弁して欲しい。きっと単純な彼の事だから思いっきり信じ込んで、あまつさえそれをネタにからかってくるに違いない。

思いついた未来に悪寒が走って、自然に足が早まりそうになる。しかし、ドアを出る直前で大河は綾音を振り返った。

「鈴木も、そんな手紙書いている暇があったら彼奴に会いに行けよな」

―――『忘れないで欲しい』なんて消極的な言葉は彼女に相応しくない。自分達は“忘れられないため”に恋をしている訳ではないのだから。

「考えておくわ」


白い手が小さく振られる。『いってらっしゃい』の形に唇が動くのを最後まで見ないうちに。大河は駆けだしていた。


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