【それは、まるで、夢のよう・前】




眉村健は、自分は夢を見ない方だ、と常々から思っていた。
昔から、特にこれといった夢を見た記憶が無い。よくよく考えれば、無いこともないのだが、そんな時に思い出す夢に限って『走っても走っても一向に近づかないゴールテープを目指して、ライオンの運転するライオンバスに追いかけられる夢』だとか。『死ぬほど甘い生クリームの海で溺れかける夢』だとか、冗談でも“楽しい”なんて言える代モノではなかった。
そんな訳だから、夢見が良くて嬉しかった経験など、眉村にとっては思い出すだけ無駄な行為だ。
だから、夢に何か意味を持たせたり、ましてや願ったりする事なんて、考えてもみた事はない―――はずだった。



○ ○○それは、まるで、夢のよう○○○





いつも通りの練習の後、埃と汗にまみれた身体を熱いシャワーでリセットする。野球をするうえで寮生活が良いと思えるのはこんな時だ。眉村が濡れた髪をタオルで荒っぽく擦りながら部室に戻ると、部屋の中に眉村の他はもう一人しか残っていなかった。



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誰が持ってきたか知らないが、その雑誌は海堂高校野球部の部室にしっかりと鎮座していた。いかにも女性好みの華やかな色合いの表紙には、男性であっても一度は聞いた事があるだろうタイトルが踊っている。
曰く「あなたの夢を占います〜世紀の恋愛成就法〜」。
女子高生やOLあたりが熱心に読み込みそうな一冊なので、こんな女っ気のない部室にあるのは甚だ不似合いなのだが。実はこれが部員の間で意外な程人気があるのだ。要は、男といえど高校生くらいであれば、恋バナって物は大人気という事らしい。
そんな事情があったので、今日もその雑誌に熱心にかぶりついているヤツがいたところで、眉村としてもそんなに驚く事はなかったし、始めは気にも留めなかった。
それが『茂野吾郎』だと気づくまでは―――

「・・・・・・おい、茂野。」

こちらに背を向けて何かを熱心に見入っている。後ろ姿ながら、眉村には相手が誰かはすぐに判断できた。
特徴的に跳ねるくせの強い髪型は、先にシャワーを浴びていたのか水分を含んで、しっとりと光っている。

「何を見ているんだ?」

眉村に声をかけられて、吾郎の背中がぴくりと跳ねて、続いてすごい勢いで振り返った。
振り向いたその表情を見れば彼が、背後に近づいていた眉村の気配に全く気づかない程に、手元に見入っていた事が良く判る。

「あ、あ・・・眉村かよ。脅かすなよな・・・」

手元で紙の束がばさばさと閉じられる気配がして、その音で眉村も吾郎が何かの雑誌を読んでいた事に気がついた。
それだけだったらなんの問題もなかったのだが、振り返った後がおかしかった。
吾郎の視線は、らしくなく・・・・・・目の前の眉村に定まらない。ぐらぐらと揺れ、ちらちらと周囲えを見回している。
心なしか肌も上気して、言葉もどもりがちで。
つまり、一言でいえば明らかに『怪しい』。

「・・・おい」

軽い気持ちで声をかけたはずの眉村の声も、自然と低くなった。
低いというか、むしろ唸り声になったのは、自分でも訳の判らない理不尽な焦燥に駆られたからだ。

「お前・・・部室で何を見ていた?」
「あ、や、別に・・・」

驚く吾郎の顔を見た瞬間、眉村の脳裏にまっ先に思い浮かんだのは、まあ、所謂そういうたぐいの雑誌だった。
健全な高校生であれば、至極真っ当な要求だと思う。そういう物を見たいと思うのは。別に、『読むな』と言うほどの事でもないし(自分だって見た事くらいはある訳だし)。それを使って抜くのも・・・、まぁ仕方無いと思う(ことにするけど、部室で抜くのは、さすがに怒ると思う)。
だが、今の吾郎の様子はそれらの理由をさっ引いても、どこかおかしいと思えた。

「何を隠している・・・?」
「う・・・いや、本当に全然・・・何でもねぇよ!」

最後の方の台詞を投げつけるように叫ぶと、丸めた雑誌を小脇に抱えて、吾郎は眉村の隣の強行突破を試みた。
何故ならば、門番は最強だったけど、この部屋の出口はそこしかなかったからなのだ。





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すり抜け際の吾郎は、眉村に襟首を掴まれた。次期エースの握力だからすごい力だ。Tシャツの襟は伸びても、手の方は簡単には外れない。
結局、体格で大した差はないはずの吾郎なのだが、何故だかまるで子猫の様にぶら下げられていた。

「くっそ、離せ!離せって!眉村!!」
「・・・五月蠅い」

怒りと呆れ疑問とが入り混じった表情が、眉村の顔に浮かんでいる。
吾郎と比べれば、表情に際だった変化の乏しい眉村にしては珍しいとも言えた。だが、その滅多にない機会を目の前にしても、吾郎には観察している余裕など全く無い。今は何よりも、この場を逃れる事に精一杯なのだ。
あまりに一方的に自分を拒否する吾郎に、眉村の神経が再びざわりと震える。
吾郎にすると無意識の仕草かもしれないが、眉村にとって吾郎に自分を拒否される事なんて、考えてもみた事が無かった。
理由があるとするならば、何としてでも知りたい。
何も聞かずに済ます様な悟りきった方法がとれる性格でないのは、眉村は自身が一番良く判っていた。
それも、こと吾郎が関係してくる事であれば特にその想いも強くなる。
吾郎の存在は、マウンドに対するのと同じ位の執着心を眉村の中に駆り立てるのだ。

(それにしても、いったいなんだっていうんだ茂野(こいつ)は?)

様々な憶測で、頭の中が飽和状態になりかけている眉村の表情は硬い。
しかし、そんな眉村の葛藤にさえ気づけなかった吾郎は、夢中になって藻掻いているウチに。普段なら絶対に口にしない、弾みとしか言えない言葉を口にしてしまっていた。

「離せ、離しやがれ、こんの馬鹿野郎!」
「・ ・・馬鹿?」
「むっつり!」
「・・・・・・むっつり・・・」
「あ・・・・・・」
「・・・茂野。・・・俺はな、お前に『馬鹿』だの、『むっつり』よばわりされる筋合いは無い・・・」

吾郎が自分の度重なる失言に気がついた時は、事態はすでに手遅れだった。眉村の低い声は、低いだけでなく触れれば切れそうな鋭さを伴っている。
眉間に寄せられた皺も、ちょっとじゃなく深い。
まずい、と思った瞬間、注意が途切れて脇の下に挟んでいた雑誌が床に落ちてばさりと広がった。

「あ!」

落ちた雑誌を拾おうと伸ばした吾郎の手は、派手な表紙に届く寸前で引き留められる。

「ま、ゆむら?」

ぎりぎりと音がしそうな勢いで手首が握られていた。




目が据わってる。やばい、こいつ、本気で怒ってる・・・・・・。




そう思った瞬間、視界は暗く覆われた。




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はっ、と漸く息をつけたと思ったのに、次の瞬間また塞がれる。緩く開いた唇の間から、温かく柔らかい感触が滑り込んできた。絡む舌と呑み込まされる体液に上手く息が出来なくて、無意識にのし掛かる眉村の肩の辺りを強く握りしめる。
柔らかく唇に歯を立てられて、背中にぴりりとした刺激が走った。

「ふっ・ ・・ん」

眉村の肩を掴んでいた手が、水気で滑って慌てて掴み直す。そうして吾郎は、眉村がまだシャワーの水気を良く拭いていない事に気がついた。
ただ、この時はその感触に『そういえば、眉村のやつ部室に来た時、上には何も着てなかったなぁ・・・。』等度、深まるキスにうっとりしながら吾郎も考えていたのだ
が、

(え、あ・・・部室?・・・部室って・・・!?)

次の瞬間、唇を合わせる眉村をもぎ離すようにして吾郎は怒鳴った。

「ちょ、眉村、待て!ここ、部室だって!!何考えてんだよ、マズイだろ!」

いくら今日の練習が終了したからといって、いつ誰が戻ってくるとも限らない。
こういう時、部室と寮が近いというのは本当に恐ろしい。
いくら眉村と吾郎が、野球部における二枚看板だったとしても、多少なりとも(薬師寺や草野辺りに)二人の関係が何となく黙認されていたとしても。

―――今の体勢を見られるのは拙すぎる。拙すぎるったら、拙すぎる!

そう判断すると、一気に自分の体温が下がるのを感じながら、吾郎はなんとか眉村の下から抜け出ようと身体を捩った、が。

(動けねーよ!っていうか、眉村のやつ重たすぎ!)

身体を捩ったが、捩った不自然な体勢のまま吾郎は眉村に体重をかけられるハメになってしまった。
ハッキリ言って、無理な姿勢の分、力も入らないので状況はますます悪くなったともいえる。しかも、上に乗り上げた眉村は、吾郎の焦りをよそに至って淡々としていた。

「茂野。一応聞いておくが、何がマズイんだ?」
「は?何が・・・って・・・」

この状況で『一応』とか『何が?』なんて問える神経は、最早、想定外というより理解不能。多少なりとも常識から外れた自覚がある吾郎にしても、許容範囲のバックスクリーンを超えている。

「どうでもいいから、離れろよ・・・まゆ・・・!?」

しかし、押しのけたはずなのに再び近づいてくる眉村の顔を見ながら、吾郎はある事に気がついてしまったのだ。

(こいつ・・・、この方・・・ひょっとしなくて・・・キレテルンジャナイデショウカ?)

「もう、黙ってろ」
「あ・・・うっ・・・」

続けようとした言葉は、余裕の無いキスで遮られた。
熱に浮かされたような眉村の眼に、同じように歪んだ自分の顔が映っていて。
ここまできたら、きっともう止まれない。
眉村だけでなく、たぶん自分も。

鎖骨の上、皮膚の薄い箇所に噛み付くようなキスをされながら、吾郎は鍵が掛かっている事を、もしくはせめても部室に誰も入ってこない事を祈らずにはいられなかった。