抜けるように青く高い空に、少し乾いた空気はこの土地特有の物だ。折から強くなり始めた日の光が、部屋の中にもくっきりとした影を形作っている。

「おい、もう時間じゃないのか?」

ぞんざいな言葉遣いの割に、彼の発音はとても丁寧で聞き取りやすい。その辺りが育ちの良さを伺わせる一端なのだが、それを告げたなら本人はきっと渋い顔をするだろう。声をかけても一向に起きあがろうとしないベッドの主に対して、起こす方も些かじれたらしい。

今度は言葉の代わりに、大きな手がシーツにくるまれた肩の辺りを揺する。

「・・・あー、もうちょっと」

「もうちょっと、じゃないだろう・・・」

呆れたような声。低めの、意識せずとも天然の甘さを帯びた声には、球場狭しと溢れる女性ファンはイチコロだ。



もう、少しだけ。この声を近くで聞いていたい。



あと数時間もしたら、自分は母国の空の下。彼のいない場所に一人で立つのだから。







□□□旅立つ日の朝に







「コーヒー淹れたぞ」

「お、さんきゅ」

日当たりの良いダイニングに、芳ばしい香りが広がる。たっぷりと添えられたミルクは、吾郎のための物だ。コーヒーを淹れた本人はいつもと変わらずに、何も足さないままのカップに口を付けていた。


「あれ、今日は何か匂いが違う?」

ミルクを加える前に、「一口目はそのまま飲め、それが淹れた人間に対する礼儀だ」と説かれてから吾郎も最初の一口はブラックで飲むようになった。確かにこの方が、香りも微妙な風味も楽しめる、気がする。それにそのおかげか、二口目からはどぼどぼミルクを注いでも難しい顔はされなくなった。


「ああ、昨日新しい豆を買ってきたからな」

「ふうん。俺は前の方が好きだな」

「そうか・・・」

甚だ失礼な事を言われても、今日の彼はさして気にしていない様に見える。今朝届けられたばかりの新聞を開いて、ざっとスポーツの欄に目を通した後、めぼしい記事を見つけたらしい。カップがテーブルの上にことりと置かれ、空いた右手が日に透ける金色の髪を掻き上げた。


「なぁ・・・」

「腹が減ったなら、朝食の用意も出来てるぞ」

「・・・・・・別に」

腹はまだ空いていないと言いかけた所で、タイミング良く“ぐうっ”という音が響く。

「ぶっ、くくっ。やっぱりお前の場合は口より腹の方が素直だな」

「な、何言いやがんだよ!そんな事言ってる暇あったら、早く飯出せよ!」

「はいはい。今朝のお姫様はご機嫌斜めと見える。くっ」


態とらしく礼を正してみせる仕草さえも、見とれる位に美しい。気障ったらしい台詞だって彼の口から出されれば、即座に誰もが納得する口説き文句になるに違いない。

もっとも、最後まで演じきれないのは彼の素質か、それとも目の前で仏頂面をしている吾郎の為なのか、そこの所の判断は非常につきにくいのだが。


「ほら、好きなだけ召し上がれよ」


「・・・・・・なんだよ、その言い方」


吾郎にしてみても不機嫌そうな表情を浮かべてみたところで、次から次へと並べられる朝食を目の前にするとそれを保つのも難しい。ふんわりと綺麗な形に焼かれたオムレツとカリカリのベーコン。きっちりと水気を切られ、冷蔵庫で冷やされていた数種類の野菜のサラダには胡桃を散らし、これだけは馴染みの店で購入してきたドレッシングが添えられている。それに加えて、ほんのりとキツネ色に焦げ目の付いたトーストが数枚、バターを塗って皿に盛られていた。


「それにしても、天下のメジャーリーガー、ジョー・ギブソン・ジュニアの得意技が料理だったとは思わなかったぜ・・・」


何回食べても、彼の料理を目の前にすると感嘆の溜め息しか出ない。


「今時、料理の出来ない男は相手にもされないんだぜ」


「あっ、そう、ですかっ!」


もっとも日本にいる幼馴染みの捕手も料理は得意だったから、あながち嘘と言うわけでもないだろう。

事も無げに言う横顔は相変わらず紙面に注がれて、作り物めいた美しさに見とれるこちらの視線にも気づかない。こんな鈍感なヤツに言われたくないと思いつつ、彼ならばそれも許されるのかもしれないと思う。



「ほら、ぼけっとしてないで早く喰え」

急げ、と急かされた事で、ふと壁に掛けられた時計に目がいった。


―――後、3時間。


ここから空港まではさほど時間もかからないが、出国手続きなどを考えれば実質は2時間を切るだろう。意識した途端に重たくなった頭を振りながら朝食に戻ると、薄水色の双眸と視線が重なった。


「な、なんだよ・・・」

「いや、お前の顔もこれで当分見れないかと思ってな」

こんな時に限って彼は、吾郎も驚く位に直球勝負だ。少しもぶれずに向けられる強い視線に、口の中の朝食の味が掻き消される。こうなったら駆け引きは、野暮で無意味な行為にしかならない。



「見れなかったら、・・・どうするって言うんだよ?」

「そうだな、そうしたら・・・」



―――今のうちにたっぷり覚えておくことにするぜ。



旅立つ朝のキスは、コーヒーの味がした。