心地よい揺れと、柔らかな風が頬を撫でた。
窓から差し込む光は初春の燦めきで、足下に出来る影さえも冬に比べれば暖かいような錯覚を覚える。
それにしても、どうして電車の座席というものは、こんなにも眠りを誘うのだろうか?
左肩にかかる重みに幸せな溜め息を付きながら、寿也は車窓から外を眺めた。

「もう・・・こんなに良い景色なのに」

拗ねたような口調を裏切って、口元に浮かぶ笑みは穏やかだ。そんな時、萌え始めたばかりの新緑の壁が突然途切れて。飛ぶように流れる風景の中から、特徴的な香りが車内に流れ込んできた。

「海だ―――」


窓の外には、真っ青な海が広がっている。





“海へ行こう”と言い出したのは、確か吾郎の方だったと思う。あの時はまだ、大気が頬に噛み付くくらい寒い季節だった。
逃げるように早い落陽の下、乾いた音を立てて崩れる枯葉を踏みしめて二人で交わす他愛の無い会話。
微かに触れた指先を、引っかけるように繋いで歩く時間。
真実は違っていたとしても、少しばかり仲の良すぎる兄弟、と周囲は見てくれていただろう。
冬季特有の、張り詰めたように澄んだ大気。瞬き始めた白い星の光を眺めながら、寿也は吾郎と約束を交わした。
季節はずれの、他愛ない子供の様な約束。

それは―――


『二人で海へ行こう』と。




□□手を繋いで□□






到着した駅は、無人とはいかないまでも、かなり閑散とした駅だった。季節によっては、海水浴客で賑わうんだ、と人当たりの良い表情で話す初老の駅員に切符を渡して改札を出る。
「切符を手渡しの駅なんて久しぶりだな」
「そうだね、前にこんな駅に来たのはいつだったけ?」
「・・・覚えてねぇ・・・」
久しぶりと言ったって、大分前に違いない。吾郎が覚えていなくてもちっとも不思議ではなかったが、得意気な表情の後に見せた、どこか拗ねた様な顔がおかしくて。寿也も、つい余分な一言を言いたくなってしまう。

「やっぱり・・・、まぁ、兄さんの事だからそんなもんだと思ったよ。それに、何年も前の事だろうしね」

「お前なぁ・・・、兄に対する敬意とか尊敬とかないのかよ!?」

「・・・『敬意』と『尊敬』って殆ど意味が変わらないと思うんだけど?」

どうやら、今回の寿也は一言では済まなかったらしい。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・う、あ」
俺は国語苦手なんだよ!と叫んで駆け出す吾郎の後ろ姿を見ながら、『苦手なのは国語だけじゃないよね』と寿也は呟いてみたけれど幸いな事に(そして当然の事に)、それは吾郎の耳に届く様な大きさの声ではなかった。

「あ、ちょっと待ってよ!兄さん!」

気を抜くと、あっという間に兄の背中は遠くなる。
そして気持ち急ぐ位だった寿也の足が、やがて吾郎に負けない位に駆け出すまでに時間はかからなかった。

(全く・・・、いつだって唐突なんだよな・・・)

髪を駆け抜ける潮風に仄かな香りがついている。それは海の香りとは違う、どこか柔らかで暖かな春の匂い。微かに額が汗ばみ始めた頃前を走る吾郎の足が止まった。

「ここ、だったよな」
「ここ?」
追いついてきた寿也を吾郎はゆっくりと振り返り、ガードレールの縁に手をかける。少し塗装のはげた柵の下からは、潮風に晒されて茶色く錆びた地肌が覗いている。それでも、二人で並んで見る海はどこまでも青く、遠くまで広がっていた。




少しの間。たぶん、ほんの少しの間。
波と風の音を聞いてから、吾郎は口を開いた。

「寿は覚えてねぇかもしんねぇけど、俺達、子供の頃にここに来たんだぜ」
「・・・え」
俺だって昔の事くらい覚えてんだぜ。得意げな顔を隠そうともせずに、鼻の下をこする癖さえも何故だか愛しくて目が離せない。無意識に伸ばしてしまった指先を、後ろを通り抜ける車の音に急いで握り込んだ。
そんな寿也の小さな葛藤に少しも気づかないように、視線を海に投げかけたまま吾郎は笑っていた。

「ああ、でもまだ健が生まれてない時だったから、寿も相当小さかったよなぁ」
「そうなんだ・・・」
「それでさ。ここの下の砂浜で、お前が気に入ってたイルカのぬいぐるみ流されてな。取りに行こうとして溺れかけて、おやじもお袋も俺も大慌てで海に入って、みんなでびしょぬれになって大変だったんだよな・・・」

海水を吸って重たくなったぬいぐるみは、幼児の手にあまるもので。泣きながら、それでも決して手を離さない寿也を、家族3人で必死に砂浜に引き摺りあげた事件は幼かった吾郎にも相当強烈だったらしい。
そのくせ、あんなに大泣きした騒ぎの元が事の顛末を全く覚えていなかった、という事が恨めしいのか、吾郎の口調はめずらしく強気だ。

「・・・そんな昔の事覚えてないよ・・・」

そんな吾郎に対して、若干の居心地の悪さも手伝ってか、寿也も返す言葉がいつになく弱気になってしまう。珍しく歯切れの悪い答えを返す弟に対して、吾郎はひどく楽しげだ。

「へぇ?記憶力には自信あるんだろ?」
「兄さん!!」

「はは・・・悪ぃ悪ぃ。冗談だよ」


「じゃあ、本当は何を話すつもりだったんだよ?」
子供の頃の他愛の無い離しをするだけだったら、こんな場所にまで来る必要はないだろう。そう、続けると吾郎の顔からするりと巫山戯た表情が抜け落ちた。

「判ってたのか?」
「別に・・・」
全て判ってついて来たかと問われれば答えは否だ。でも、この約束をした時から寿也の中で釈然としない想いはずっと蟠っていた。唐突で気まぐれな約束に見せかけていたけれど、吾郎はいつも今日の事を気にしていた。折に触れ、偶然思い出したように『約束』を口にする彼に寿也の思いは複雑だった。兄が何を思って自分を誘ったのか、理由を考えれば途端に思考は闇に囚われそうになる。

吾郎が『好きだ』と言ってくれた言葉を疑うつもりは無い。それでも尚、寿也の中で満たされない部分があるのは確かなのだ。常に寿也を苛み続けた不安はほんの僅かな綻びからでも飛び出してくる。今だって、吾郎から向けられる真っ直ぐな視線にすら不安は煽られて堪らないのに。

「寿也・・・、あのな。」
「・・・・・・聞きたくないよ」
「寿也!」
「嫌だ!・・・嫌だ!!絶対聞きたくない!」

怒鳴ってしまったのは、らしくなく静かな口調で話し始めた吾郎に、衝動的な恐怖がこみ上げたからだ。一瞬、こんな事だったらついて来なければ良かったと、寿也の胸中を後悔が過ぎる。痛いくらいに握りしめた拳が、微かに震えていた。





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