西瓜


 


濃い緑の隙間をぬって、強い日差しが路面に落ちていた。じーわじーわと蝉の声がする。さながら合唱のような響きは、お世辞にも耳に優しい物ではない。この騒音を岩だか石だかに『染み入る』と表現した昔の人は、相当暑さに強かったに違いなかった。いや、それともと考えて――生憎、続きは何も思い浮かばなかった。本当に真っ白。空白。豆腐みたいに月並みな表現。国語は苦手だと言い訳する以前に、熱に思考が浸食されて簡単な思考もままならない。
ただ、一つだけ確かに言える事は

この暑さ、はっきり言って、もう、うんざりだ。



◇◆



そういえば、なんでこんな場所に俺はいるんだっけ。と考えながら阿部は隣を見た。そうすると、ただ隣を見るという単純な動きをしただけなのに、汗がたらりと首筋を滑り落ちた。気持ち悪い。反射的に手で拭うと、掌がべたりと濡れた。当たり前なのだが、溜め息が出た。
「阿部くん、どうしたん、だ?」
「あ…?」
そうだ、こいつが原因だ。と熱の所為でか少々胡乱気な表情で阿部は呟いた。汗で額にへばりついた栗色の髪も、棒アイスを囓りながら引き摺られている草臥れたスニーカーも。群馬はナツでも涼しいヨ。なんて、普段の発言から推察してみれば相当胡散臭い話を、うっかり信じてしまったあの時の自分が呪わしい。幸いな事に、蝉の声でかき消されたのかこのぼやきが相手に伝わった様子は無かった。だが、「それにしても、」と阿部の思考は続く。よくよく、よくよく考えてみれば、
「群馬が涼しいだなんて、軽井沢かどっかと間違えてんじゃねーのか」
尤も、この二カ所に共通する店があるとすれば、山が深いのと温泉か。とりあえず、自然は豊かだ。緑も美しい。冬場にくればスキーとかでも楽しめるかもしれないけど。(尤も、そんなシーズンが到来したとしても、危険な遊びをこの投手にさせるつもりなんて阿部にはさらさら無かったが。)
「そ、そんなに暑いか、な」
「…暑ぃ」
ぼそりと短く呟くと、三橋がひっと息を呑んだ。これは言葉の内容よりも、零した時の阿部の表情を見て怯えたという方が妥当だろう。仕方ねぇだろ。文句があるんなら、この汗をどうにかしてくれよ。三橋に負けず劣らず、汗が滴り落ちる額を拭って阿部は溜め息をついた。
「あ、阿部くん……」
「…んだよ?」
「群馬でも、涼しいとこある、よ」
珍しく不機嫌そうに、むう、と唇をに尖らせながら三橋が小さく反論してくる。ほんの一瞬、軽く目を瞠った後、おおそうか。じゃあ、言って貰おうじゃないか。些か挑戦的な気分で阿部は額の汗を拭った。何度目かなんて、もう分からない。
「みんな、暑い時は、よくドライブとか行くん、だ」
「へぇ……」
「結構、す、涼しいし。すごく、気持良いよ!」
ドライブ。予想していたよりかは、普通の消夏法だ。曰く、免許はまだ持っていないから、年上の従兄弟や親に連れて行ってもらうしかないのだけれど。そういえば、三橋の母方の実家だという敷地には、住人の数と同数以上の車が止まっていた。道路だって、余りごみごみとしていない分、さぞかし走りやすいだろう。ふうん、と鼻を鳴らした阿部は「じゃあ、どこに」と先を促した。そこまで言われると、流石にちょっと興味も沸いてくる。自分が免許を取ったあかつきには、二人で行くのも良いかもしれない。本当に、涼しいみたいだし。それでも、当分先の話になりそうだが。
しかし、三橋は今日一日でだいぶ日に焼けた頬を軽く擦ると
「榛名湖、とか。涼しいし、綺麗だ、し」
何気ない風に、思いつきとしか他に表現のしようもない(阿部にとっては、ある種の嫌みとしか思えない)地名を口に出した。
「…は?」
三橋に他意は無い。それは阿部だって分かっている。だが反射的に顔を顰めずにはいられなかった。なんか今、すんげぇ嫌な名前聞いた気がするんだけど。しかも、こんな時に限って三橋も敏感に何かを読み取ったらしい――とりあえず、阿部の気持ちとは思い切り真逆の方向で。得意気に瞬く鳶色の目が「ね!」同意を求めてくるのが、その証拠だ。だが、生憎と、阿部の方は拒否するつもりで満々だった。しかし――しかし、だ。そんな日本人的な常識(この場合は空気を読むとか、雰囲気を察するとかだ。…同じ意味か)が通用する相手でなかった事が、阿部にとっては唯一にして絶対の不幸だった。
「阿部く、ん!」
黙れと怒鳴るより僅かに早く、特有のふにゃりとした笑顔が零れ落ちる。
「榛名さん、と同じ名前だ、ね!!」
やっぱり……。
「…そんなん、湖の方が昔っからあるだろ…・」
なにも、あいつの名前が湖に付けられた訳じゃない。たまたま、アイツの方が同じ名前なだけなのだ。それでも、同じだ!と三橋は眸を輝かせている。驚くほど大きくて淡い色をした眸は、そこだけ季節感を忘れたみたいに涼しげだった。
「……馬鹿馬鹿しい…」
聞いた俺が馬鹿だった。と脱力したように阿部は独りごちる。涼しい話題どころか、聞きたくもない奴の名前を出されて、不快指数が一気に跳ね上がった気さえする。おまけにどうしてか、あの笑顔には抗えない自分の情けなさに、溜め息を押さえ込むのが関の山だ。ああ。マジ馬鹿みてぇ。俺は何時からこんなに情けないヤツになったんだ。俯いた拍子に、だらりと垂れた汗を拭うのにも、また気力が必要だった。



◇◆


「……お、もい?」
「…重くねぇよ」
思い出したように、三橋がぽつりと呟いた。囓っていたアイスは、いつの間にか無くなっている。
「帰ったら、よく冷やしてから、食べよう、ね」
ルリとかシュウチャンとかも呼びたい、な。何処かで聞いたような名前を三橋が口に出す。誰だっけ?思い出す前に、西瓜。西瓜。微かに綻んだ相方の口元を見ながら、阿部は急に喉が乾いたな、と思った。冷蔵庫で良く冷やして大きく切り分けた一切れにかぶりつけば、この奇妙な熱だって引いてくれるかも知れない。三橋の実家の冷蔵庫は、家の大きさに比例するように特大なのだ。西瓜の丸ごと一個くらい苦もなく入るだろう。
「…いいけど、あんま食べ過ぎんなよ。腹冷えると後で大変だかんな」
「う、うん!」
楽しみだね。と三橋が笑う。西瓜を吊しているビニール紐が、ぎ、と阿部の手に食い込んだ。