涙の理由


 


その光景を見たのは偶然だった。


いつものように朝練のために学校へ向かう。
朝靄で白くけぶるグランドを横目に通り過ぎて部室のドアを開ける、それが日課だ。
前日に雨等が降れば土の様子が気になるので、着替える前に確認の意味も込めて立ち寄る事もあったが、何もなければ隆也は着替える事を優先する。それは練習を優先する事に他ならないからだ。
第一、鍵を持っている自分より早く来ている部員が居るなど思った事もなかった。(もっとも視界所に住んでいる田島は、近いが故か性格なのかぎりぎりで来る事も多いのだが。)
だから、その日に限って眼を向けたマウンドに、三橋が蹲っていたのを見た時は自分が寝ぼけているのかとさえ思った。
隆也が立っている位置からマウンドはそれなりに離れている。声さえかけなければ、蹲る三橋がこちらに気づく事は無さそうだった。
走れば1分にも満たない距離。いつもの自分だったら、すぐにでも声をかけていたかもしれない。それでも今は声をかける事はできなかった。

マウンドに蹲る三橋の頬を伝う筋に気づいてしまったから。
その涙がいつもと違う事にも気がついてしまったから。

三橋の泣き顔はめずらしい物ではない。哀しくても嬉しくても、戸惑っても三橋は泣く。
それが教室だろうが廊下だろうが、部室だろうが関係ない。大きな瞳から、溢れるように滴が零れるのは阿部にとって見慣れた光景ともいえる。

思えば今の三橋の姿は、蹲るというよりもマウンドにひざまずいているようにも見えた。
敬虔な祈りを捧げるように、彼はマウンドに跪き、涙を零す。
その瞳は悲しみに曇るわけではない。
ただひたすらに前を見つめている。それは投手にとっての聖地を守るため、全力を尽くす事を誓うかのように。

そしてその姿に隆也は唐突に気づかされる。三橋は投手だという事に。
投げるためにだけ生まれ、投げる事にのみ何かを見いだす事が出来る、否それしか出来ない酷くいびつで、それだからこそ自分にとって最も愛おしい存在。
どんなに深く傷つけられても、それ以上に惹かれてやまない至高の存在。

「・・・ったく、あれじゃあ肩冷やすじゃねぇか」

呟いたのはただの言い訳だ。三橋に触れるための都合の良い言葉。
再び部室の扉を目指したのは、一刻も早くロッカーの中に吊された上着を取りに行くためだ。




自分も着替えてグランドに駆け着くまで、そう時間はかからないだろう。
それまでに三橋の涙が止まっている事を、ささやかながら願わずにはいられなかった。