3.唯一の弱点
「おらっ!三橋!!」
「わ、わ、た、田島くんっ!!」
きゃんきゃんと仔犬の転げ回る様な声が、部室に響く。泉押さえろ。面倒くさいから嫌だ。じゃあ、花井頼む。俺は、まだ死にたくない。部外者が聞いたら、何が何だか判らない台詞の応酬だが、その実態を知ってしまえば実に他愛のない事なのだ。
「た、じま、くんっ!オレ、わ、脇腹、駄目、だ!」
3.唯一の弱点
「お前ら、またそんな下らない事やってんのかよ」
部室のドアが開く音とともに、不機嫌きわまりない声がした。田島に押さえつけられながら、ひーひーと悲鳴を上げていた三橋が顔を上げると、そこには憮然とした表情の阿部が立っている。後ろには、一緒に来たらしい水谷の姿。くすぐられるのが苦手な水谷は、三橋の姿を見ただけで耐えきれないのか、両手で自分の脇腹をしっかりとガードしているのが彼らしい。
「あ、べくん?」
鈍さでは定評のある三橋には、何故、阿部がそんなにも不機嫌な顔をしているのかが判らない。本人にしてみれば、ちょっと巫山戯ていただけなのにな。くらいのモンなのである。何しろ中学時代に友人と巫山戯る事すら無かった三橋にとっては、こんな事でも貴重な体験なのだ。
しかし阿部は、そんな三橋を一瞥すると、それきり口を開こうとしない。無言で自分のロッカーに向かう後ろ姿を、水谷や花井辺りが非常に生温かい視線で見つめていたが、泉は小声で「うざい」と呟いた。
こうして、非常に微妙な雰囲気で満たされた西浦野球部だったのだが、ここには三橋に負けないくらい、場の空気を読めない人物がいたのである。
「阿部っ、次の獲物はお前だーっ!!」
一番近くにいた三橋が、止める暇も無かった。自慢の瞬発力を生かした田島のジャンプは、あっという間に阿部との距離を0にする。流石の阿部もかろうじて振り返ったところで、避ける暇までは無かった。
「ちょ、なんだって!おい、田島!」
着替え始めていた事も、阿部に災いした。脱ぎかけのシャツに邪魔をされて、上手く田島を引き剥がす事が出来ない。藻掻く阿部を後ろから羽交い締めにすると、田島の手はおもむろに脇腹に伸びた。
「ほらほらほらほらーっ」
楽しげな声とともに、阿部の脇腹で田島の手が動く。それを見ていた三橋の顔が、思い切り歪んだのは、先程の感触を思い出してしまったからだ。水谷が思わず視線を反らした理由も同じだろう。
ところが、くすぐられている阿部本人の反応は、三橋や水谷と全く違うものだった。
「なんだよ、それ?」
不機嫌そうに寄せられた眉間は、ぴくりとも動かない。
「え・・・」
「え、阿部くすぐったくないの?」
「俺、脇腹とか全然くすぐったくないんだけど」
「嘘!」
阿部の言葉が信じられないとばかりに、田島は矢継ぎ早に質問をする。
「じゃ、じゃあ脇の下は?」
「平気」
「足の裏は?」
「大丈夫」
マジかよ。とか嘘だろ。とか騒ぐ声で部室は一時騒然となった。だが話を聞いていた巣山までもが、阿部と同様の意見を言うと。それでもまだ納得しかねるのか、田島は三橋に話しを振った。
「三橋は、阿部の弱いとこ知んねぇのかよ?」
「え、あ、う・・・し、らない」
なーんだ。三橋が知らないんだったら、判んねぇよな。そうして、残念そうな田島の声で、ひとまずこの騒動は収拾がついたのである。
□□□
「なぁ、お前。本当に俺の弱い所知らねぇの?」
「う・・・あ・・・」
ロッカーに押しつけられたこの体勢で、そんな事を聞かれたって答えられるはずがない。まともに返事をする事も出来ず、せめて僅かな隙間を見つけて身体を捩ろうとした三橋を、阿部はやすやすと押さえ込んだ。
「なぁ、本当に知らねぇの?」
二人以外の部員は全て帰ってしまったとはいえ、学校内で、誰が来るか判らないこの状況で、阿部の行動は些か大胆過ぎやしないだろうか。不安で心臓がばくばくいっている三橋と対照的に、阿部はあくまで落ち着いている様に見えた。
「し、らない、よ」
「ふーん。俺にもそんな事言うんだ」
だって知らない物は、知らないんだ。口から出るはずだった言葉は、そのまま阿部の動きに塞がれる。
「やっ・・・・・・んんっ」
重ねられる唇に、三橋は必死で目の前のシャツを掴んだ。目がくらむ、足が震える。与えられる感覚は、くすぐられた時よりも遙かに強力だ。
「なぁ、これでも、まだ、判らない?」
微かな水音をたてて唇が離れると、至近距離で黒い瞳が笑う。あまり人の良さそうな笑顔ではなかったが、三橋にとっては何よりも魅力的なその笑顔。
「・・・・・・わ、かん、ない」
「嘘」
「・・・ほ、んと、だよ」
「そっか・・・」
冗談抜きに残念そうな顔になった阿部に、三橋は溜め息をつく。キスの合間に、思わず伸ばしそうになった手を握りしめながら。
―――耳の後ろ、だよ。
唇を重ねる時に、身体を抱きしめた時に、たまたま触れた事のある阿部の耳。その瞬間の事は今でも忘れられない。阿部自身も気づいていないかもしれない、あの時の表情、あの時の声は。
三橋の本音を言えば、あの時の阿部の顔は、誰にも見せたくないのだ。
―――阿部くんの、唯一の弱点は、オレだけが知っているから。
だから知らない振りをする。知らない振りをさせて欲しい。
ふいに湧き出た想いの強さを自覚する前に、離れかけた阿部の身体を、三橋の指が引き留める。
「三橋・・・」
三橋を抱きしめる阿部の腕に力が籠もる。再び重ねられた唇は、先程よりも熱く激しい。力の抜けた身体は、そのまま部室の床の上に横たえられた。
「やべ・・・。止まんねぇかも」
悪い。と謝る声も阿部の声も熱に浮かされている様で。触れる指先から、伝わる体温に子供じみた独占欲が満たされる。ささやかな望みは、熱い波に溺れて散り散りになってしまうけど。
それでも、きっと、忘れない。
「阿部くん・・・・・・」
阿部の耳の後ろに、三橋の指が、そっと触れた。