春を呼ぶ声


 



【三橋】

学校へ向かう道の途中で、三橋がいつも足を止める場所があった。緩い曲がり角に建つ一軒の家がその場所だ。なんの変哲もない、そして見知らぬ人の住む家。
今日もまた、自転車のペダルから足を下ろして三橋はその場所を見上げていた。



□□□



【栄口】

「なぁ、最近三橋の奴、朝練来るの遅くないか?」
心配を通り越して『不機嫌』という文字を顔に貼り付けた捕手が呟いた。
振り返った栄口は、常と変わらない穏やかな表情で「そうかな」とだけ答えると、またすぐ土を均す作業を戻る。冬が過ぎ、グランドの端にはぽつぽつと緑の芽が出始めている。これで一雨くれば、外野の辺りはあっという間に侵食されるので、気は抜けないよなと二塁手は考えていた。

「おい・・・」

「何?」

来るのが遅いといっても、遅刻しているわけでもない。最近は寒気も少しゆるんできたから、三橋にしても眠気が勝ってしまうのは仕方無いのでは。という趣旨を告げたが、その答えにも阿部は首を横に振る。

「三橋のおばさんに確認したけど、家を出る時間は変わってねぇんだ」

「へ、ぇ・・・。じゃあ、どうしたんだろう」

「何も聞いてないのか?」

「そういう事情だったら、俺よか田島や泉に聞いた方が良くない?」

あの2人にはもう聞いた。と苦い物を含んだように阿部が顔を歪めたところを見ると、今回の問題は思ったより根が深いのかも知れない。
「じゃあ、どっか寄り道してんじゃないのかな」

「朝練の前に何処に寄ってくるっていうんだよ!」

「こ、コンビニ・・・とか?」

以前に肉まんを両手に抱えた姿を見た事があっただけに、栄口にはそれは自然な行動のように思える。今の時期だったら、まだ肉まん売ってるしさ、と。

「コンビニでもねーよ」

だが、どうしてそう断言出来るのかは不明だが、阿部は確信しているようだった。

「じゃあ、何処に寄ってるんだろう・・・」

うっかりと呟いた栄口が、次の瞬間、しまったと思った時はもう遅かった。

「お前もそう思うよな!なら確かめるべきだよな!」

「え、え・・・と、お、俺も!?」

がっしりとした手が肩にのせられては、否やを言える筈もない。そうか最初っからこのつもりだったのか(確かに田島は隠密行動に適任とは言えないし、泉はあっさり断りそうだ)、と気づいてみても後の祭り。


「なんだかなぁ・・・」


早速、明日落ち合う場所と時間を決め始めた阿部の後ろで、今来たばかりの三橋が不思議そうに首を傾げているのが、妙に虚しく感じられた。





□□□




眠い目を擦りながら自転車に跨ってペダルを踏み込んだ。ぐんと力を入れる度に、ふわっと風の流れる気配がして、まだ少し冷たい春の空気が鼻孔を刺激する。「何の匂いだろう?」仄かに甘さが漂っている気がしたのは、綻び始めた梅花の所為かもしれない。ドアを開けた瞬間は、まだ薄暗い景色に溜め息を吐いた栄口だったが、春の訪れを感じさせる香りに心が浮き立つような気がしていた。

「阿部、おはよ!」
「はよ」

月の白さがくっきりと見える道を曲がると、そこには約束通り阿部が待っている。軽い挨拶を交わした後、並んでゆっくりとペダルを踏んでいると、ある場所で阿部の足が止まった。

『どうした?』
『もうすぐ三橋が来る。ちょっと下がれ』

小声ではいはい。と返事をすると、いつも気難しげな顔が一層小難しい顔になる。今度は手だけで「下がれ」と合図されて栄口は自分の自転車を引き込むように電柱の影に隠れた。

『こんな事するくらいなら、直接聞いた方が早いんじゃないのかな?』
『―――それは』
『それとも聞いたけど駄目だったから、こんな事してんの?』

阿部の無言は、そのまま栄口の問いかけを肯定しているのだろう。ハンドルを握る手が力を込めた所為か白く見える。なんだかな。と二塁手の口から溜め息が漏れた。阿部も阿部だが、三橋も三橋だ。相手を心配したり、心配を掛けないように気遣ったり、端から見れば分かりやすい事この上ないのに、どうしてだか本人達の間では全く通じ合っていないのだ。

『ここまでくれば天然記念物もんだよ・・・』
『なんか言ったか?』

いや、別に。慌てて首を横に振ると、決して納得した表情では無いが、阿部も再び前を向いた。そうして、5分いやもっと長かっただろうか。カラカラという細い音が、道の向こうから響いてきた。

『三橋か・・・?』

しっ、指を口に当ててと制された直後、隠れている2人には気づかないまま三橋が脇を通り過ぎる。すれ違いざま、ふっふーん。と奇妙な音程の鼻歌だけが不思議なくらい耳に残った。





【三橋】




いつも通り、いや一ヶ月前よりも15分早く設定した目覚まし時計が鳴る。ベッドから素足を突き出すと、さらりとした空気が心地よい。あまり大きな音をたてないように気をつけて部屋のドアを開けると、今から見る光景を想像して三橋の心臓は少しだけ早く鼓動を刻み始めた。


「廉、おはよう。おにぎり出来てるわよ」
「あ、ありがとう!お母さん」

三橋の母は急に早く起き出した(といっても15分だが)理由など聞かず、前と同じ笑顔で朝食を用意してくれる。炊きたての匂いのする湯気が胃袋を刺激して、腹がぐうっと鳴った。
ほらほら、早く食べなさい。と促されて席に座ると、熱い味噌汁が差し出される。皿に載せられた握り飯を囓ると海苔の香りがぱっと散って、喉の奥に転がり落ちていく。美味しい、と思わず呟いた声に母親の笑い声が重なった。




「い。行ってきます!」

掌についた米粒まで丁寧に食べきると、眠気も完全に吹き飛んだ。慌ただしく荷物を肩にかけ、はみ出したシャツの裾を押し込みながら玄関を開けると、春の空気が流れ込んできた。



□□□




朝というよりは夜に近い空だったが、水平線の辺りが滲むように明るく光っている。今はまだゆっくりだが、そのうち、はっとする程鮮やかにこの空が朝の色に切り替わるのを三橋は知っていた。ペダルを踏む度に感じる風も、月の初めに比べれば段々と柔らかな物に変化している。頬を撫でる密やかな変化は季節の移ろいを感じさせるだけでなく、胸の奥に新しい熱を生み出す気さえした。

やがていつも通りの道をほんの少しだけ脇に逸れて、三橋は緩い曲がり角に向かった。


「もう、少しか、な・・・」

金属のスタンドがたてる音は、静かな景色の中でやけに大きく響く。それでも細心の注意を払って自転車を止めると、三橋はいつもと同じ場所を見上げた。
なんの変哲もない、そして見知らぬ人の住む家。
緑の竹垣の上から、葉が一つも無い黒い枝が張り出している。その先端には白い花。握り拳ほどの柔らかそうな花弁がゆるやかに反り返って春の風に揺れている。


三橋がこの場所を見つけたのは、ちょうど一年前の今の時期だった。
何年かぶりで戻ってきた街は、幼い頃の記憶より僅かに狭くなったように感じられた。歩き回っているうちに見つけたこの花は、群馬の家でも植えられていたものだ。桜より早く早春を告げるこの花の柔らかな白さが、これからの不安や途惑いを和らげてくれる気がしていた。
あれからもう、一年が過ぎたのだ。
野球部に入るまで、いや「彼」と出会うまでに抱えていた諸々の問題は全て解消されたわけでないけれど、それでもだいぶ軽くなったとは言える。今の自分には、胸を張って立てる場所と暖かく握りしめてくれる手の持ち主がいるから。
ほっ、と息を吐きながらその花を見上げていると


「おい、お前何やってんだよ」


ここにいるはずもない彼の声が、突然聞こえた。
聞き間違いか、という考えが頭の隅をちらと過ぎったが、そんな物は次の瞬間、あっという間に霧散した。


「おい、聞こえてんだろ。三橋!」


苛立ちを含んだ声は、低く。三橋の背筋を震わせる。そこには恐怖だけでなく微妙な甘さも含まれているのを彼は知っているだろうか。気づいてくれたらいいのに、と思う反面、困ったことに現状の密やかさを抱きしめたい自分がいるのも確かなのだ。

「あ、べくん・・・」
「おう」
「え、栄ぐ、ちくんも・・・」

振り返った先にいたのが2人だった事を、三橋は純粋に驚いた。彼がこの場に来る事を想像した事はある。でも誰かと一緒に来るなんて、それは予想の範囲外だったから。


「三橋。俺はただの付き添いだから」
「あ、うん・・・」
「お、おい、栄口っ!」


余分な事は言うな。だって本当の事だろ。黙れ。じゃあ、俺はこれで。と小突き合う2人の副将を見ていると、三橋は自然と口元が弛んでしまうのを止められなかった。胸の中の小さな熱が、ゆっくりと新しい息吹を生み出し始めている。





【阿部】


鼻歌を歌いながら一心にペダルを踏む三橋の後ろ姿が、緩やかな角を曲がった。

「―――ちっ、やっぱあっちは学校の方じゃねぇな」
「こんな時間に、何処行くんだろう?」
「分からないからこうしてんだろ」

何処か暢気な栄口に小さく舌打ちをすると、阿部は細い背中を見失わないように急いで自転車を押した。角を曲がるとすぐに、ぽやぽやした茶色の頭は、歌に合わせて上下しながらも一軒の家の前で止まった。

『あそこ、誰んちか知ってる?』

耳元で囁かれた声に、「知らねぇ」阿部は首を横に振る。じゃあ、どうして?という問いかけにも、無論、頷ける筈もない。

『俺の方が、教えてもらいたいくらいだよ』
『―――そっか』

うんうん、と一人で納得したように頷いた栄口が、ふいに阿部の前に出た。

『ちょ、お、おいっ!何考えてんだよ!』

待て、と手を伸ばすのより早く三橋に向かって歩いていく悪友の後ろ姿を見て。当然のことながら阿部はひどく焦った―――尤も、結論は一瞬で出したのだが(出さざるをえなかったともいうが)。


「おい、お前何やってんだよ」


言葉を投げる相手は、正直どっちだってかまわなかった。理由も言わずこんな場所に寄り道する三橋も、自分を差し置いて事情を聞こうとする栄口も、どちらにも言ってやりたい事がある。だが、案の定というか、阿部の言葉に驚いた表情を見せたのは三橋だけだった。
奇妙な形に開かれた口が、空気を求める鯉のようにぱくぱくと動く。
(一年近くバッテリーを組んできた仲としては何回も見た光景だが、見慣れるにはまだ時間が必要な気もする。)


「おい、聞こえてんだろ。三橋!」


この場に及んで状況を把握しているとも思えない様子が癪に触る。その事に気づいたのか、漸く、「あ、べくん・・・」彼の唇が阿部の名前を綴った。続いて隣にいる栄口にも目を向けると、鳶色の双眸が心持ち大きく見開かれる。

「え、栄ぐ、ちくんも・・・」
「はよ!三橋」

音を立てそうな勢いで瞬かれる睫毛が、持ち主の動揺の大きさを伝えていた。だが、次の瞬間

「三橋。俺はただの付き添いだから」
「あ、うん・・・」
「お、おい、栄口っ!」

あっさりと告げて踵を返そうとする『付き添い』の横っ腹を阿部は肘で牽制するハメになった。「ちょっと、阿部。痛いんだけど」と顔を顰められたくらいでは気にもしない。

「余分な事は言うな」
「だって本当の事だろ」
「―――黙れ」

阿部としては(今更なのだが)、ここで三橋と2人きりにされても会話を繋げる自信がないのだ。早朝に待ち伏せをするという実行力は持っているくせに、その後の流れまでは考えが及んでいなかったらしい。

そして本人より先にその事に気づいた栄口は、内心珍しい事もあるものだと感心していたが、すぐに「なぁんだ」と呟いてしまった。


「じゃあ、俺はこれで朝練行くわ」


三橋が絡んでいるから計算が狂った―――というより、計算する余裕が阿部から吹き飛んでいたのだろう(本人は気づいていないけれど)。


「花井には俺から言っておくから」
「お、おいっ!」
「栄口く、ん。あ、後で、また!」


あんま遅くなるなよ。と変わらぬ笑顔だけを残して自転車を漕ぎ出す後ろ姿に三橋だけが無邪気な表情で手を振っていた。




□□□



「でさ、なんでお前寄り道してんの?」
「寄、り道?」
「してんだろ!今だって、ここになんの用事があるんだよ!?わざわざ朝練の前に回り道までして・・・」
「あ・・・え、と」

きゅ、と竦めた首を怖々と伸ばしながら、三橋の瞳が阿部を写した。自分に比べれば断然色素が薄い眼差しが、答えを躊躇うように揺れている。あ、と掠れた声が阿部の唇から漏れる。

「―――怒鳴ったりして、悪ぃ」

でも、俺だってな気になんだよ。と髪を掻き上げる仕草を見て、投手は小さく首を傾げた。

「・・・気になる?」
「当たり前だろ!こんな毎日毎日どっかに寄り道されてたら・・・何があるか気になるに決まってっだろ!」

時間を考えて声を抑えようとした阿部の(虚しい)努力は、きょとんとした顔の前にあっさりと瓦解した。開き直って大股で近付くと、柔らかいクセのある髪の上から拳をぎりと当てる。

「うひっ!」
「ほら言え!早く言え!なんでこんなとこに寄り道してんだよ!?」
「は、ははははは、はな、がっ!」

「・・・は?」
「え、だ・・・から、花が・・・」

花。と言われた阿部は、ふとさっき見た光景を思い出した。自転車を止めて空を見上げる横顔と、その視線の先で揺れていた白い、白い―――あれが。



「これ、見に来てたのか・・・」


こめかみを締め付けていた手を外すと、阿部は肩の力を抜いて呟いた。うっすらと涙を滲ませた三橋が隣でこくりと頷いた。

「あ、れ。木蓮の花、なん、だ」
「――木蓮?」
「う、ん。群馬の家に、も、植わってて、もうすぐ散っちゃうけ、ど」

散る寸前の今の時期が一番綺麗だ、と思うんだ。ひどく懐かしい物を見つめるような視線に阿部の胸が微かな痛みを覚える。

「三橋・・・?」

だが、そんな些細な傷には気づかないのか、三橋の視線は相変わらず白い花に向けられている。

「――鳥、みたい、なん、だ」
「は・・・鳥?」

唐突に変わった話題に、今度は阿部が首を傾げる番だ。

「あ、あの花が鳥みたい、に見える、んだ」
「あ、ああ・・・そういう事か・・・」

言われてみれば、そう見えない事もない。と、阿部は黒い枝に止まる白い花を見上げた。緩やかな角度で花弁を開いている無数の花。遠目に見たならば、確かに、羽を休めている鳥に見えるかも知れない。項垂れた花弁の一つが、ひらりと足下に舞い落ちる。

「これが、全部散る、と、もう春なんだ」
「そういや、学校の桜も、もうすぐ咲きそうだって誰か言ってたな」

呟かれた言葉が、寂しげだなんて阿部は考えたくもなかった。僅かな沈黙も振り切るように声をあげると、自転車のペダルに足をかけた。

「俺もお前も、ぼけっとしてらんねーかんな」
「へ?」
「4月からは、ウチにも新入部員が入ってくんだぞ。お前だって、ちょっとは先輩らしいとこ見せないと――」
「と、ととと、とら、ま、マウンド、と、取られちゃう!?」

誰もそこまで言ってねーだろ。と怒鳴ったところで、三橋の耳に阿部の言葉が入った様子は無い。真っ青になって自分の自転車に駆け寄ると、覚束無い足取りでペダルを踏み始めた。


「ほら、ちゃんと真っ直ぐハンドル持てよ」
「う、うん」
「朝練前にこけて怪我なんてしたら、承知しねーぞ」
「は、はいっ!」

ふらふらしていた体勢が、段々と風を切るようになる頃。三橋の頭の中からは、もう白い花の影は追い出されて、マウンドの事だけでいっぱいなのだろう。漏れ聞こえてくる鼻歌に眉間の皺を弛めながら、阿部もペダルを踏む足に力を込めた。その途端、前を走っていた三橋がくるりと阿部の方を振り返った。


「あ、べくん・・・っ!」
「何だよ?」
「え、と。グランドに、着いた、ら、話す、よ!」


満面の笑みに怒ることも出来ず。じゃあ、前見て走れ。と言いかけた阿部も、ふと何かに呼ばれるように一瞬振り返る。



春風の中で木蓮の花が、白い鳥が舞うように一斉に散り始めていた。