ごめん、ごめん、ごめん。ありがとう。


 


「別れよう」


口にしたのは阿部の方だった。三橋はばかみたいにぽかんとした顔で、その言葉を聞いている。思わず「お前、俺の話を聞いているのかよ!」と、阿部はいつも通りの突っ込みを入れそうになって、危うく思い留まった。もう、そういう事は止めようと自分は考えたはずなのだ。止めようと思ったからこの言葉を告げたのだ。
それを自分から覆しては何の意味もない。ただ染み込んだ習慣という物は恐ろしくて、今もポケットの中を無意識に手がさぐっていた。おおかたこれは、今から零れるであろう三橋の涙を拭くために、ハンカチを探しているのだろう。ここまでくれば、習慣も予定調和の域に達している。
だが、自分が泣かせようとしているのに、その泣かせた本人が慰める準備を前もってするなんておかしな話だ。心の中で自嘲して、かつ、迷いなどないさ。と嘯くために、阿部は口の端を歪めてみた。余裕の笑みに見せたかったはずなのに、何故だか上手くいった気がしなかった。



結論からいうと、三橋は泣かなかった。

言われて数分はぽかんとした顔をしていた。それからゆっくりと瞬きをして、何かを考えているようだった。余分な言葉で誤魔化さなかった分、阿部の告げた意味はストレートに伝わったはずだ。しかし、それにしては三橋の反応が鈍くて、阿部は焦れた。まさかこれだけはっきりと伝えたのに、三橋は理解していないんだろうか、と不安が過ぎる。だが、その不安は杞憂に終わった。
我慢しきれなくなった阿部が口を開くより、一瞬早く、三橋の唇が動いたのだ。

「うん。解った・・・別れる、よ」

至極あっさりとした答えだった。別れを宣言した阿部の方が、むしろ震える語尾を気にしていたというのに、三橋は、殆どどもる事もなく返事をしたのだ。その表情からは、悲しい、苦しい、辛いといったマイナスの感情は一切伺えない。例えるならば部活の帰りに「やっぱり夏は暑いね」と会話するくらい、普通の顔だ。そういう状態なのだから、三橋はむろん涙なんて流していない。浮かんですらいない。

「え・・・あ、・・・みは、し?」

むしろ、この場に第三者がいたならば、阿部の動揺の凄まじさに驚いただろう。文字通り顎が外れそうな顔で、阿部は三橋を凝視していた。試合で自分のリードが読まれたと知った時だって、此程の衝撃は受けなかっただろう。そんな顔だ。三橋は俯くこともなく、まっすぐに阿部の方を見ている。阿部が何度見直しても、滑らかな頬に零れ落ちる物はない。不自然な動きが少しもない事が、むしろ不自然に思える程三橋は落ち着いていて、対する阿部は、目の奥がじんわりとしてきた事を押し隠すのに必死だった。



□□□


悲しくなかったか、と問われれば首を横に振るしかなかっただろう。それをしなかったのは、ただ誰もその事を三橋に聞かなかったからである。
阿部に「別れよう」と言われた時。三橋は驚いた。いつものように部活を終えた帰り道、その言葉は唐突に突き出された。さっきまで自転車を並べて野球や試験の話をしていたのが嘘みたいに遠くなる。
自分の周りから世界が切り離されて、一人だけ放り出されるような浮遊感。現実味が無いのに、頬を撫でる風の湿った感触だけは、やけにリアルに感じられた。衝撃の大きさに、動揺する事すら出来なかった。たっぷり数分、感覚的には数十分の時間の後、漸く阿部の言わんとしている事が理解できた。
理解してから、まず「どうしよう」と思った。別れたくないという言葉がぽつんと浮かんだが、それはすぐに胸の片隅に追いやられる。どうしようもないのだ。阿部が別れるといったからには、三橋は別れなければならないのだ。何故ならば、無造作に告げられた様に思えるこの状況も、阿部の性格を考えるならば、それなりに前から入念に準備された言葉であるはずなのだ。
阿部が思いつきや衝動で、こんな言葉を口にするタイプでないのは三橋にも良く判っている。だからこそ、阿部が告げた言葉こそが、彼の最終結論で、揺るぎようのない答えなのだ。理論でも、口でも三橋は阿部に勝つ自信が全くない。感情的に泣き叫ぶ事くらいは出来るかも知れないが、阿部がそういう事を一番嫌っている事も良く知っていた。

それならば、と思ったのだ。

それならば、最後の時くらい阿部の気持ちに沿うようにしよう、と思ったのだ。泣かないで、騒がないで、ただ静かに阿部の言葉に頷こうと。自分にはそれ位しか出来ないと三橋は思っていた。だが、それだけでも三橋にとっては非常な努力を伴うものだったし、気を抜けば勝手に涙を生産しようとする涙腺を抑えるのに必死で、阿部の表情まで気遣う余裕はなかった。だから「別れる」と返事をした時の阿部の顔が、三橋には解らなかった。
阿部の顔をまともに見てしまったら、泣いてしまうと思ったから。彼の肩越しに瞬き始めた白い星の光を、見つめるのに必死だったからだ。


そんな風にして、また何分かが過ぎた。阿部は動かない。三橋も動かない。人通りの多い道ではないといえ、夜道で立ちつくす二人を帰宅途中のサラリーマンが不審気に見つめて去っていった。

「あ、あの・・・」

居たたまれない雰囲気に、思わず言葉を漏らしたのは三橋だ。阿部の話は済んだのだろうか。済んだのなら、一刻も早く家に帰りたかった。さっきから必死で踏ん張っている涙の堤防は、もはや決壊寸前だ。付き合いの最後の思い出を、自分のみっともない泣き顔にしたくない、ただその一点の思いだけで頑張ってきたけれど、そろそろ限界だ。油断をすると口元が震えそうになる、嗚咽が喉の中で暴れ回る。早く一人になりたい。一人になるのが無理ならば、せめて阿部の目の届かない所に行きたかった。

「阿部くん・・・お、オレ、もう帰って、も・・・」




□□□


その時阿部は、馬鹿みたいに三橋の顔を見ていた。それこそ穴があく程見ていたかもしれない。少しでも、ほんの少しでも三橋の言動や表情に、不自然な箇所が無いか探していたからだ。見つけたらどうするんだ、と言われても返答に窮しただろう。どうするも何も、「別れる」と告げて、三橋がそれを受け入れた時点で、二人の関係は終わったのだ。

今更、何を見つけた所で現実は変わらない。

阿部にしても、そんな事は解っている。しかし、三橋が泣かない、三橋がキョドらない、三橋が落ち着いている。そんな新発見をしたいわけでは無いのだ。阿部は、いつもの三橋を見つけたかったのだ。あの落ち着きが無く、すぐに怯えて涙ぐむ。自分がよく知る「三橋」を見つけたかったのだ。
無意識に握りしめた手が、じっとりと汗を纏っている。そのクセに冷たい。試合で緊張がピークにまで達した三橋の手を思い出した。なんで、こんな時に、そんな事を思い出すのだろう。訳が判らない。次いで、目の前に立っている三橋に焦点を合わせると、相変わらず落ち着いているように見えて。苛立ちと不安が交互に湧き起こる。

誰だ、こいつ。こいつは、本当に三橋なのか?三橋はこんな顔をするヤツだったか?

阿部は、自分の記憶の引き出しを引っ張り出して、中身をぐちゃぐちゃになるまで掻き回したが、今の三橋とぴったりと照合する表情は出てこなかった。途端に、苛立ちよりも不安がぐっと嵩を増す。目の前にいるのが、三橋の顔をした他人のように感じられて、思わず手を伸ばしそうになった。直接、触れて確認したかった。あの柔らかな感触の髪を、滑らかな頬を、熱い唇を思い出したかった。だが、阿部の思いもよらない事に、その手は三橋自身の手によって弾かれた。

「オレた、ち・・・もう、別れ、た」
「あ、ああ」

そうだ、その通りだ。極めて現実的な答えだ。三橋にだってプライドはある。自分を振った阿部に、恋人の時のように振る舞われるのは嫌なのだろう。己の無神経さに歯噛みをするのと同時に、阿部は指先だけでなく腹の底に冷たいモノが溜まっていく事に気がついた。
これが、別れるという事なんだ。自分から言い出したクセに、阿部は現実を全く理解していなかった事を、今更のように思い知らされる。

「これ以上、用事が無いなら、帰る」

きっぱり言い切った三橋と、阿部の間は1メートルも離れていない。手を伸ばせば、一歩を踏み出せば、あっという間に埋まる距離だ。30分前までだったら、確実にこの距離は無かった。だが今は、どんなに手を伸ばしても届く気がしない。たった4文字の言葉が、二人の間に立ちはだかって、昨日までの優しい空気ですら通してくれない。別れる、とはこういう事だったんだ。
自覚した途端、再び阿部の目の奥の熱が増した。とっさに手で隠したが僅かに間に合わなかった。目尻からじわりと湧きだした水分は、重力に引かれてぽろりと零れ落ちる。ああ、なんて格好悪いんだ。振られた方は平然としていて、振った方が泣くなんて。笑い話にもなりやしない。阿部は、これ以上情けない様子を三橋に見られたくなくて、顔を背けた。
今更だが、本当に今更だが、阿部は自分が言った事を後悔していた。あれ程入念に、脳内でシュミレーションして、完璧だと思っていたのに。現実は、こんなにも簡単に予想を超えてしまう。こんなに苦しいとは思わなかった。「別れる、って言ったのは嘘だ」と言ってしまいたかった。でも言えない。冗談で済ますには間が悪かったし、何よりも三橋がそれを受け入れてくれる雰囲気では無い。形では阿部が振った事になるのかもしれないが、実情は阿部が振られたという方が、きっと正しい。

本当に、このまま別れてしまうんだ。と実感したら、阿部の瞳に、涙がまたじわりと湧いてきた。

「じゃあ・・・また、明日」

いつまで突っ立っていたところで事態が変わるわけもない。「また、明日」なんて来なけりゃいい。未来永劫「今日」でも困るけど。どうせだったら放課後あたりまで記憶を巻き戻して、そのまんま保存しといてもらいたい。


叶うはずもない事をかなり本気で願いながら「あ、」立ち去ろうとした阿部の背中を、くんと引っ張る感触があった。




「三橋・・・?」





背中に暖かい感触がじわりと広がる。シャツが濡れてるんだと気づいた時、阿部は本気も本気、声をあげて泣きたいような気持ちに襲われた。





ごめん、ごめん、ごめん。ありがとう。