まよけのみ


 



部室を開けると部屋どこからか、ひどく甘い匂いが漂ってきた。
何かと思えば、部室の真ん中に鎮座している箱の中から、その香りは発されている。
何が入ってるの?誰が持ってきたんだ。部員達が箱を覗くと、中には行儀良く詰められた桃が、ちょうど部員の数だけ入っている。
「あ、それオレが持ってきたんだ」
「へぇ、田島のじいちゃん桃まで作ってんだ」
「いんや、それは田舎の親戚が送ってきたんだ。もう季節もおわりかけだから、最後のやつだってさ」
へぇ、とかほう、とか感嘆の声をあげて見られるほど、その桃はどれも見事だった。
ちょうど全員の分あるから、一人一つな。さっきまでしのーかが冷蔵庫に入れててくれたから冷たいよ。冷蔵庫ってどこのだよ。理科室のだろ。え、あそこの冷凍庫にネズミの死体はいってるって聞いたんだけど。桃は冷凍庫じゃないから大丈夫だろ。そんなに言うんなら、水谷の分は俺が持って帰るけど。え、待ってよ巣山!
ほどよく冷えた桃は、練習後の彼等にはひどく蠱惑的だった。誰が言い出したわけでもなかったが、めいめいが自分の分を手に持つと、皮を剥いて齧り付く。
良く熟れた果実は、軽く爪を立てるだけで容易に皮が弾けて、うっすらと蜜を浮かべた実をさらけ出した。その桃を一口囓りながら「今日の授業で、桃出てきたよな」と呟く声がする。
「花井、それ何の授業?」
「たしか歴史だったと思うけど、9組はまだ?」
「うちは明日あるから明日かな」と泉が答えると、同じクラスの田島と三橋も頷いた。
で、どんな話なの、とせがまれて花井は要点のみをかいつまんで説明を始める。
古事記の話の中で、黄泉の国に妻を迎えに行ったいざなぎが追いかけてきた鬼の大群を追い払うのに桃を投げたんだって。それから、桃は魔よけになったとか。
「桃、すげー。俺、ゲンミツにうちでも桃植えようかな」
「そんなの只の昔話だろ」
「でもさ、そう言われると植えたくなるじゃん」
「田島は桃が無くたって、鬼から逃げられそうだけど」「あ、俺もそう思う」
大騒ぎを始める皆の間で、三橋はふと阿部の姿を探していた。阿部は一人で会話に混じらず、今まさに、剥けた桃の表面に歯を立てようとしている。
「あ、べくん」
「ん、何?」
三橋の方を振り向くと、桃を持つ手をそのままに阿部は三橋の隣に来る。お前喰わないの?と聞かれて、三橋はゆるく頭を振った。

「そもそもなんで、いざなぎって逃げ出したんだよ。だって自分の奥さん迎えに行ったんだろ?」
「なんかさ、奥さんすごい姿になってたから怖くて逃げ出したらしいぜ」
「うわ、ひっでぇ」
「でも、俺も考えちゃうかも」
「お前はそういうヤツだよ・・・」「だって、ゾンビだよ」「それは・・・」

聞くともなしに聞いていた会話に「あいつら、よくあんな話で盛り上がれるよな」呟いて、阿部は桃を一囓りした。囓ったとたんに蜜が溢れ、阿部の手首にまで滴が伝う。それを舐め取る赤い舌に、三橋の目は釘付けになった。
「あ・・・」
知らず声が漏れ、耳の先まで赤く染まる。そしてそんな表情の変化を見逃す阿部ではなかった。三橋の耳に顔を寄せると小声で囁く。
「今、何想像してたか当ててやろうか」
「え・・・あ、阿部くんっ!」
距離が近過ぎる。みんないるのに。果物や話に気を取られているけれど、少し振り返れば目に入る。心臓の音が跳ね上がり、反射的に阿部の肩を押しやるとおろそかになっていたもう片方の手から桃が転げ落ちた。
「おっと、ここが畳で良かったな」
コンクリだったら、今頃ぺちゃんこになってるぞ。拾い上げた桃を投手の手に戻す仕草は流石捕手、堂に入ったものだ。渡すついでにもう一度「喰わないのか」と重ねて問われて、三橋は前より大きく頭を振る。
「家持って帰る」
そうか、と笑った阿部の顔はたぶんに何かを含んでいる。





「そういや、さっき何考えてたか当ててやるって言ってそれっきりになってたよな」
「う、うん・・・」
カラカラと自転車のスポークが回る。夏も終わり、秋の夜はひどく穏やかで、それでいて何処かに冬の訪れを思わせる冷たさを纏っている。吐く息が白くなり、街路樹の葉が落ちるまでもそう間がないだろう。
「お前さ、―――」
「阿部くん」
珍しく他人の言葉を遮る。阿部にしてもそんな様子を見ることはまずないので、話に水を差された事よりも驚きが勝って、ぽかんとした顔で三橋の顔を見ていた。
「阿部くんは、逃げる、の?」
「逃げる?」
話が全然分からない。どこをどうしたら、自分の話と三橋の言葉は繋がるのだろう。だが思いの外真剣な面持ちでこちらを見るので、阿部も記憶の糸をたぐり寄せながら会話の糸口を探し始めた。そして、思いつく。部室、桃、歴史の授業。黄泉の国まで妻を迎えに行った夫の話。そして、逃げ出した男。
「逃げるも何も、そもそも俺まだ結婚してないんだけど」
「そ、うだけど・・・」
口にした言葉は、三橋の意図とそう外れた所にはなかったらしい。それでもまだ不安げに揺れる瞳を見て、阿部は呆れたような溜め息をついた。
「俺は逃げねぇよ」
「え・・・」
「ただし、相手は限定されっけどな」
流石にゾンビとか見たらひくと思うけど、本当に大切な相手だったら逃げねぇよ。そうなんだ。とあやふやな答えを返す頭を阿部が叩く。最後まで人の話を聞け。聞いてるよ。聞いてないだろ、そんな顔しやがって。
「お前が地獄に行ったら、俺が迎えに行ってやるよ。そんで連れ帰ってやるから」
「・・・・・・」
「それとも逆かな、俺が地獄に行くかもな」
「阿部くんは、行かない、よ!」
いや、行くとしたら俺の方だから。頬に添えられた手に、三橋は何故と問いかける。人通りの少ない路地、白い人工灯の下、微かに強張った阿部の顔が泣きそうに見えた。
「お前を引きずり込んだのは俺だから、地獄には俺が行くよ」
何、とは聞かなかった。自分に触れる手が、身体が覚えている温もりが、その全てが罪なのだろう。法は犯さない、でもこれは種の掟を犯す罪。


「・・・行かせないよ」
絶対に行かせない。行くのなら自分はどこまでもついて行くだろう。その想いが少しでも伝わればいいと、三橋は阿部に腕を伸ばす。



鞄の中から押しつぶされた魔除けの果実が、抱き合う二人の間に甘い芳香を漂わせていた。







麦酒コップ2杯とワインボトル半分で見事に酔っぱらった結果、こういう訳の判らない話になりました。
やっぱり酔って書いたらいけないね。酔った勢いでupするのは更にいけない。
でも眠れないんだもん。(←言い訳になってません)