非時香果


 



足下から、じんわりとした熱が上がってくる。冷えた爪先を包むような暖かさに頬を弛めながら卓上に手を伸ばすと、三橋は大きな鉢に山と盛られた果実を手に取った。
厚みがあるものの、柔らかな皮はあっさりと剥ける。沈みかけの日の光にも似た果皮の下、薄い膜に覆われた実は、柔らかく清々しい芳香を漂わせていた。


「ちゃんと喰っとけよ。ビタミンは風邪の予防にもなるかんな」
「うん。オレ、蜜柑好きだ、よ」
「食べ過ぎると、手が黄色くなるけどな」


いつもの蘊蓄に加えて「お前もそろそろ黄色くなる頃なんじゃないのか」と、人の悪い笑みを浮かべながら、阿部が三橋の手の甲をつついた。


「う、おっ!ま、まだ黄色くなって、ない・・・と、思うけど」
「ふーん。でも、さっきから結構喰ってるだろ?」


返す言葉も無いとはこの事か。脇に寄せられた橙色の残骸は、香りこそするものの中身は全て三橋の胃の中に収まっていた。




□□□非時香果(ときじくかぐのこのみ)□□□




阿部が、田舎から送ってきたから、と、この柑橘類をぶら下げて玄関に現れたのは、年の瀬も迫った夕暮れだった。
土産を手渡すなり、すぐに帰ろうとした彼を引き止めたのは三橋の母親だ。忙しい時間に申し訳ないと、気の強そうな眉を少し下げる息子の友人は、彼女にとっても特別の存在らしい―――なにしろ息子の話題の8割は、この友人の事ばかりなのだから。
いつも廉が世話になってるから、と熱心に勧められるのに負けて靴を脱ぐと。後は遠慮する暇さえなく、時間の流れのままに阿部は三橋家で夕食を頂き、風呂に入り、居間に据え付けられた炬燵に足を突っ込んでくつろぐまでに至っている。


「この蜜柑、すごく甘い、ね」


綻ぶと余計に幼く見える顔で、三橋は小さく分けられた一房を口に放り込んだ。噛み締めると、冷たく甘い汁が口の中を潤してくれる。向かいに座る阿部は、その様子を少し呆れた風に、だが微笑まし気にも眺めていた。


「そんなに喰うと、手だけじゃなくて全身黄色くなっぞ」
「う、あ・・・う、嘘だ・・・」


だが、尤もらしい顔で言われると、嘘だと分かっていても不安にはなる。思わず袖をまくり自分の腕を擦る三橋の仕草を見て、阿部が吹き出した。


「お前、本気にすんなよ。こんなの冗談だって分かってるだろ」
「分かってるけど・・・でも、本当に黄色くなったら・・・」
「なりゃしないだろ。ああ、でも―――」
「でも?」


意味深な口調で会話を区切られて、興味を刺激された三橋は阿部の方へ身を乗り出した。しかし、卓上に肘をつき腰を浮かせると「浮いた布団の隙間から暖かい空気が逃げる!」と、どんな時でも細かい捕手に怒られてしまう。


「ご、ごめん・・・」
「あ、三橋、ちょっと待って」


項垂れてごそごそと戻ろうとすると、ふいに、剥き出しになったままの腕が掴まれた。固く骨の太い指が薄い身体を引き寄せる。勢い、卓の上に乗り上げるようになってしまった体勢は、少なからず三橋を動揺させた。


「阿部くんっ、あ、あったかい空気、逃げちゃう、よ」
「あ、すぐ戻れば平気だろ」
「じゃあ、す、すぐ戻らなきゃ」
「もう、ちょっと待って」



先程の暴言は、阿部個人の都合で流された。その上、何の躊躇いもなく、阿部の顔が近づいてくる。空気が震えた。
近い。
ふ、と吐息を素肌に感じて、三橋は反射的に固く目を瞑った。




「―――あれ?」
「え・・・?」


不思議そうな声にゆるゆると目蓋を上げると、そこには些か気難しげな表情を浮かべる阿部の姿がある。何が起こったのか把握出来ない三橋が首を傾げると、


「思ったより匂いしねぇんだな・・・」


ぼそりと呟く声が聞こえた。


「匂い?」
「ああ、あんだけ蜜柑食ってっから、てっきり蜜柑の匂いくらいするんじゃねぇかと思ったんだけど」


どこまで本気で、どこまで冗談か分からない事を言われて、三橋は酸素不足の金魚のように、口をぱくぱくさせながら喘いだ。一体、阿部は何を考えているのだろうか。そんな事ある訳ない。自分にさえ容易に見当がつくような事を、阿部が知らないとは到底思えなかった。


「に、おい、した?」


とりあえず聞いたのは、確認の為、というよりも「冗談だよね」と笑い飛ばす自信がなかったから。それだけ阿部の表情も真剣だった。


「した、といえば、したような気もするけど」


もう一度確かめるように、三橋の腕に顔を寄せると、阿部は微かに鼻をうごめかせる。


「蜜柑の匂いっていうよりも―――石鹸の匂いだよな」
「そうだ、ね」


それなら納得がいく。先程風呂に入ったばかりなのだから当然だ。だが、こくりと頷いた三橋は、次の瞬間思いも寄らぬ感触に悲鳴を上げた。


「う、ひゃっ!あ、阿部くんっ!」


湿って暖かい感触が腕を這う。痺れるような感覚が背筋を走り(実際に三橋の身体を微かに震わせていた)、台所で後片付けをしている母親を憚って声を顰めたが、心臓の動悸までは抑えられない。


「何するん、だ、よ!」


しかし、珍しく責めるような口調にも、阿部は実にとぼけた応えを返してくる。


「匂いはしないけど、味はするかと思ったんだよ」


舐めたら甘いかと思った。仕上げのように己の唇を舐める阿部の仕草。半ば真顔で告げられた台詞に、三橋は足下を包んでいた熱が、頬にまで昇ってきた事を感じていた。額に滲んだ汗から、橙色の芳香が零れた気さえする。


「する訳ない、よ!」


しかし、蜜柑を食べ過ぎたくらいで匂いがしたり、肌まで味がついたりしたら大問題だ。それがもし現実だったら、蜜柑農家の人はどうすればいい。阿部だって少なからず口にしているのだから、確かめるのなら自分の身体で確認すればいいだろう。


「するわけ・・・な・・・い・・・。阿部、くん?」
「くっ・・・くく・・・」


憤慨する投手は、そこで漸く、捕手が笑いを堪えている事に気がついたのだ。


「阿部くんっ!」


自分は、からかわれていた。と分かって、三橋は乱暴な動きで己の腕を元の位置に戻した。ついでに布団に潜り込むと、鼻の下の辺りまで、無理矢理上掛けを引き上げる。


「悪い、悪い。マジで信じるとは思わなかったから」
「ひどい、よ!」
「いや、でも『味』がするとこがあるのは本当だぜ」
「え?」


阿部の言葉に、三橋が思わず顔を上げる。乗り出して来ていた黒色の瞳に、自分の顔が映っているのを見た刹那、重ねられた唇の隙間から、弾力のある固まりが滑り込んできた。
湿った感触に口腔内が蹂躙される。
声が籠もる、息が出来ない。だが、三橋は、決して離れて欲しいとは思わなかった。


「ふっ・・・く、ん、んっ」
「三橋・・・」


―――絡まる舌。混じる蜜の味は、確かに果実の味がした。