『手紙』


 



『手紙』



唐突だが阿部は、手紙を書こうと思った。



書こうと思った事に、特に理由なんてなかった。ただ書きたかっただけだ。

手紙の相手は勿論三橋だ。

別に手紙なんて書かなくても明日学校に行けば、三橋に会える。
明日どころかこれから先の数年は、長期の休暇さえなければ、ほぼ毎日顔を合わせるだろう。その事を長いと思うか、部活以外での時間が少なすぎると感じるかは、きっと三橋次第だけど。
判っているのは、阿部がこの時間に飽きる事は、きっとないという事だ。

「あー、紙、紙。」

ごそごそと机の中をあさって、ルーズリーフの束を無造作な手つきで取り出した。便箋なんて気の利いた物は持ち合わせていない。まぁ、ピンクや水色の花で飾られた手紙なんて、それこそ自分の頭がおかしくなったと思われるに違いない。ノートの切れ端くらいでちょうど良いのだ。

何を書こうかと頭を捻る。

飯はちゃんと食え(かつ、良く噛め)。とか、
冷たい物は飲み過ぎるな。とか、
腹と肩は温かくしておけ。とか、
授業中は出来るだけ起きておけ。とか、
爪は切りすぎるな。とか、
漫画ばっかり読んでいないで早く寝ろ。とか、




「なんだ・・・。結局、野球に関係してる事ばっかりじゃん」

馬鹿みてぇ。それこそ毎日の様に言っている事なのに。今更こんな事ばかりを書くなんて。

「まっ、いっか・・・」

でも、これが自分達らしいのだと思い直して、箇条書きにされた注意事項を阿部は丁寧に折り畳む。

それから、ふと思いついて再び紙を広げると。一行だけ書き足した。

明日渡そうと思った、その気はとうに失せてしまっていたけれど。机の上で開きかけていた教科書に、とりあえず挟んでおく事にした。




□□□




珍しく教科書を忘れてしまった。


昼休みを挟んだ最初の授業は数学だ。
昼食も済んで人心地付いた三橋は、いつものように自分の机の中を探り始めた。探るというよりも、ぎっちりと詰まった教科書やノートを抜き出すといった方が正しいかもしれないが。(人はそれをオキベンと呼ぶ)
ほぼ全教科を置きっぱなしにする最大のメリットは、忘れ物をしないという事で。それ故、成績の如何はともかく三橋が忘れ物をする事は殆ど無かった。(デメリットに関しては言わずもがなの事である)

「あ、あれ・・・、あれ・・・う」
ところが、今日に限って三橋の様子がおかしい。

「どうした、三橋?」
いつまでも机の中から手を出さない三橋の顔を、泉が不思議そうに覗き込んできた。

「お、おれ・・・き、しょ・・・い」
「きしょい?」

三橋語の翻訳機能にかけて、泉の能力は決して低くはない。
むしろ、野球部内においては高い方だろう。田島に関しては別格なので、泉の脳は彼を比較対象には選ばない。しかしそれなりに三橋語に自信のある泉だったが、今日の課題はなかなかにレベルが高そうだった。

―――“きしょい”って“気色悪い”って事か?いや、気持ち悪いって事なのか?

確かに、今の三橋の顔色は真っ青で、机の中に片手を突っ込んだままガタガタと震えている。でも昼飯は相変わらず良く食っていたし、田島とキャッチボールだってやっていた。本当に具合が悪くなったのなら、保健室に連れていかないと。と泉が眉を顰めた時、

「『教科書忘れたみたい』だってさ」
「はぁ?」
すかさず入った田島の通訳に、そうなのか?と尋ねると。
三橋の首がガクガク縦に振られたので、泉は安堵の息をつくとともに、肩の力もどっと抜けてしまった。

「なんだ・・・、教科書かよ」

とりあえず安心した。
何故ならば、仮に三橋の具合が悪いとすると、まず阿部が黙っていない。部活から私生活まで、おはようからお休みまで、三橋の事となればどこからでも飛んでくるあの世話焼き女房。正直いってウザイ事このうえない。
(まぁ、三橋が絡まなければ単なる愛想が悪いヤツなのだし、特に問題は無いのだが。)
そいつが「三橋が保健室に行く」なんて聞いた日には、どんな行動をとるかなんて考えるのも鬱陶しかった。

「ど、ど、どうしよ・・・」
だが事態は、そう安穏と構えていられるものでもない。
次の数学の教師は、校内でも評判の鬼教師だ。教科書を忘れたなんて言った日には、普通の生徒でも減点1。日頃から昼寝と赤点スレスレの三橋であれば、目も当てられない事態になるのは必定だった。

「は、早く借りて来いよ!授業始まるまで、まだ5分位あるだろ」
「う、う、うん。で、誰に・・・」
「花井んとこ、今日数学の授業あったと思うぜ」

「そうか!じゃあ、三橋は早く7組に借りに行け!」

田島の言葉に、そいつは朗報だ。とばかりに泉は立ち上がると三橋をせき立てた。

「う・・・うん。お、オレ行ってくる!」

7組だったら、往復5分でも充分すぎる。頑張れよ、と見送る田島は『花井梓』と書かれた数学の教科書を誇らしげに振っていた。




□□□




始業ベルまで、後4分


「あ、う、・・・あ。」
昼休みも後わずかとなれば、教室を出入りする生徒の動きもひどく慌ただしい。
7組に入る生徒、自分のクラスに戻る生徒でごった返すドア付近で、三橋はなかなか教室の中に入れないでいた。

「うおっ!」
どん、と背中に当たる感触があって前によろめく。
たたらを踏んで体勢を立て直そうとしたが、それより早く二の腕の辺りを掴まれて引き上げられた。

「あ、・・・ありがと・・・」
「全く、何ぼけっとつっ立ってんだよ!」

「ひぃっ!・・・って、あ、べくん?」
竦めた首をこわごわと声の主に向けてみれば、ふうっ、と呆れた様な溜め息が落ちてくる。
間違えようもない、阿部だ。
阿部だと判ると、途端に三橋の目元は自然にじんわりと潤み始めた。

「ううっ、うっ、く」
「お、おい!どっかぶつけたのか!?」
「き、き、かしょ!!」

焦った様な声に返ってきたのは、見事なまでに意味不明で。阿部は深い皺を寄せた眉根を三橋に向けてきた。

「ききかしょ?」
―――おい、なんだ、それは?新しい食べ物か?今、流行ってんのか?


心の声が顔に出ていたのかもしれない。
阿部が聞き返すより先に、珍しく三橋が必死の形相で言い直してくる。一応、ここら変は三橋も学習している様だ。

「あ、ちが・・・う。教科・・・書。貸して、くださ・・・い」
「はぁ?お前、教科書忘れたのかよ!!」
「ご、ごめん・・・なさい」
「まったく・・・、いつも学校にオキベンしてるんだろ。何も今日に限って忘れるなんて・・・」
と、言いかけた所で阿部は自分の口元を軽く押さえた。

―――ひょっとして、ひょっとしたら・・・。

「昨日のせいか?」
「・・・う」
「そっか・・・、ま、仕方ねぇな」
「阿部くん・・・?」
「昨日、お前に家で数学やらせたの俺だし。」

―――そういえば、数学以外の事も色々(しっかり、がっちり)やったんだけど。

所謂、課外授業ってやつだよな。等と、阿部が教師が聞かせるには不遜過ぎる事を考えている、そんな時も三橋は三橋だった。

「うん、でもあれは。オレが数学出来ないから・・・で」
阿部くんのせいじゃないよ。と三橋は律儀に返す。
真剣で真っ直ぐな瞳に、ちょっとじゃない罪悪感を感じながら、そのせいもあってか、次に阿部の口からでた台詞は自分でも驚く位に優しかった。

「いいから。俺の教科書もってけ」
「う、うん!」

『阿部くんってイイ人!』

聞かずとも顔に書いてある。その笑顔に阿部の表情もつられる様に弛みかけた。そのまま7組に戻れば水谷や花井あたりを、居たたまれない気持ちにさせそうな阿部の笑顔だったが、幸いな事にその心配も杞憂に終わりそうだった。

『キーン、コーン。カーン、コーン』

ほんわかしたムードが漂いかけた二人の頭上に始業を知らせるチャイムの音が鳴り響く。

「う、おっ!も、戻らなきゃ!!」

阿部から渡された教科書をしっかり胸に抱えると、三橋は「ありがとう!」と叫んでぴょこん、と頭を下げると、自分の教室に向かって走り出した。

「おい!走んな!こけるぞ!!」


阿部の目を吊り上げて怒鳴る声に、三橋が一瞬振り返った。
だが、その顔に怯えた様子は無い。三橋の口がパクパクと動いて、それが『アベクン、アリガトウ!』の形だと気づいた阿部の口元が微かに弛んだ。




「・・・まったく、さっきも言ったじゃねぇかよ」

だから、その顔のまま、自分の席に座った阿部を水谷がこの世の終わりのような顔をして見ていた事も。少し前からやり取りを見ていた花井の、脱力した様な溜め息も。そして何よりも、自分が昨晩書いた見せるつもりのない手紙が貸した教科書に挟まっているなんて



阿部は少しも気づいていなかった。




□□□




1年9組 数学の授業


阿部くんから教科書を借りた。

阿部くんの教科書は、とても綺麗だ。
オレの教科書は机の中にずっと突っ込んでいるせいか端がぼろぼろだし、田島君の教科書は外もだけど中身がすごい。前に浜ちゃんや泉くんと一緒に覗いた事があったけど、田島君の教科書に出てくる人物は、みんな揃ってすごい髭を生やしていたり、耳が尖ってたり。
壱万円札に出てくるような人物だって例外じゃなかった。


(浜ちゃんはそれを見てすごく笑っていたけれど。正直な話、浜ちゃんの教科書だって負けてない、と、オレは思ってる。だって、教科書の最初から最後まで波瀾万丈のストーリーが展開されるパラパラ漫画は、泉くんだって面白そうに眺めていたから。)


それに比べても阿部くんの教科書は、阿部くんらしいというか、すごくキチンとしている。
折れたりとか縒れたりとかしているページは無いし、要点らしい所には真っ直ぐに線が引かれている。

―――・・・すごい、な

数学は得意って聞いていたけれど、これを見るとそれが本当なんだな、と改めてオレは感じていた。

『三橋、三橋』
「え?」
ちょんちょんと肩を突かれて横を見ると、泉君が目で前を見ろと合図する。
なんだろう、と教科書から顔を上げると、厳しいので有名な数学の先生が名簿とオレ達を交互に眺めている。
『次の問3、誰に当てるか考えてるみたい』
「うひっ!」
泉君が小声で教えてくれた内容は衝撃的だった確かに昨この辺りまで阿部くんは教えてくれたけど、一人で問題を解けるかと聞かれれば「うん」と言える自信はない。
教えてもらった『問3』を必死で探して見つけると、果たしてオレの頭にはにっちもさっちもいかない問題だった。

こうなったら、とれる方法は一つしかない。
机の上に教科書を立てて、その影に隠れるようにして先生と目を合わせない様にする。あんまり隠れすぎると、それはそれで居眠りとかと間違えられるから。適度な加減が必要な、オレにとってはなかなか高度な技なんだ。

「あー、じゃあ、この問題。2番の今井、前に出て」

自然にふうっと安堵の息が出た。
『今井くん』には悪いけど、助かった。と思った瞬間ふにゃりと気が抜ける。しかもオレの場合、気だけじゃなくて身体の力まで抜けて机の上につっぷしてしまった。

「・・・あ?」

その拍子に立てていた阿部くんの教科書が、ぱたんと倒れて。

弾みで、ノートの切れ端の様な物がはみ出しているのに気がついた。


―――何だ、ろう?

恐る恐る指先で摘んで引き出すと、それは驚くほどあっさりとオレの手の中に収まった。
今日の授業より、大分先の方のページから出てきたから、きっと勉強には関係無いのかもしれない。でも、あの阿部くんが、全く関係の無い物を教科書に挟むなんて、すごく不思議な気がした。

丁寧に、ぴんとした折り目で畳まれた白い紙。


―――み、見ちゃ駄目だよね・・・。阿部くんのだもんね・・・。


見ちゃ駄目だ。と思ったり、少しだけだったら。と思ったり。オレの頭の中は、もうこの紙切れの事でいっぱいで、先生が黒板の前で何かを言っているけど、何も耳に入ってこない。

じっとりとした汗が指先に滲む。


開くべきか、開かざるべきか、


―――それが、問題だ。―――


好奇心、が、勝った・・・。


―――ちょ、ちょっと、だけ・・・。
ごくりと息を飲み込むと、オレはゆっくりと紙を開いた。




□□□




【阿部+三橋。帰り道】


三橋の様子がおかしい。
ちらちらとこっちを見るくせに、目が合うとばっと反らされる。部活の間中も、そしてこの帰り道でも。こんな事は別に今に始まった訳じゃないけれど、最近はちょっと減っていたせいもあって余計に目についた。

あからさまに何かを気にしているくせに、一言もしゃべらない。そうなると、俺も意地になって、あ、でも、う、でも一文字だって言ってやるもんか、という気になっていた。

「・・・・・・」
「・・・・・・」


カラカラと自転車を押す音だけが、無言のままの俺達の間に落ちる。

なんで今日に限って自転車を押して帰ろう、なんて決めたのか理由は簡単だ。いつもはチャリ通の俺と三橋は並んで自転車を漕いで帰るけど、今日の三橋に自転車の運転をさせるのは俺が不安だった。あんなに落ち着きのない状態で自転車に乗って事故でもおこされたら、俺が後悔する。絶対に後悔する。
だから、こんな風にわざわざ押して帰るはめになったのだけれど。あまりに長すぎる沈黙に、俺は早くも自分の提案の方を後悔させられていた。自慢じゃないけど、俺は気の短さには自信がある。(ついでに口の悪さにも)


「あのなぁ・・・、言いたい事あるんなら言ってくんねぇ?」

俺、超能力とか持ってないからお前の心の中までなんか判らないし。苛立ち紛れに投げつけた言葉は、案の定、三橋の身体をすくませる。のみならず今回は、ガチャンと金属のぶつかる音がして、三橋の手から離れた自転車が道路に転がった。

「おい・・・、別に怒ってるわけじゃねぇかんな」
倒れた自転車を何故か起こそうとしない三橋に溜め息をついて、俺は自分の自転車を止めると三橋のそれに手を伸ばした。


「わ、わわわ、判ってる!」

「はぁ?」

「お、オレ、阿部くん怒って、ない、のわ、判ってるよ!!」

おいおいおいおい、何だそりゃ?怯えてるとばっかり思っていたのは、俺の勘違いだったらしい。でも、その割にこいつの態度おかしくね?


「じゃあ、なんだよ。その態度」
今だって倒れた三橋の自転車を挟んで、俺達はお見合い状態だ。
時間的に人通りが少なくなっているとはいえ、端から見れば変な光景だろう。しかも公共の迷惑。


「そ、それ、は・・・・・・」
それでも、もごもごと口ごもる三橋の耳にふと俺の目が止まった。


「耳、赤い・・・」
「えっ!」
途端に、三橋はものすごい勢いで自分の耳を隠した。良く見れば耳だけじゃない、顔も赤い。
「お、お前!熱でもあんじゃねぇのか!?」
倒れっぱなしの自転車を跨ぎ越して、一気に距離を詰める。間近で見た三橋の顔は、やはり夜目でも見事なくらい赤かった。とりあえず耳を押さえる手は放って置いて、額に落ちる淡い色の髪をかき上げた。
「うひっ!」
「熱は・・・、ねぇみたいだな」
指先に触れる三橋の髪の感触は、ひどく柔らかい。まるでふにゃふにゃの猫の毛か、人間だったら赤ん坊の髪の毛みたいな柔らかさだ。

「だか、ら、身体、は大丈夫、だ」
「じゃあ、何なんだよ?」
呟きながら、三橋の額に当てていた指をそのまま頬に滑らせる。近すぎる距離で、ゆっくりと上下する睫毛を眺めながら、俺の思考は些か不埒な方向へ傾こうとしていた。


「・・・・・・て」
「て?」
「・・・て・・・がみ」
「てがみ・・・・・・?」



―――てがみ、って手紙の事か?


三橋の言う『てがみ』が頭の中で漢字に変換された瞬間、フラッシュバックが俺を襲った。


―――1枚のルーズリーフ。腹を出して寝るな。肩は冷やすな。折り畳んでしまった。


「う・・・、あ、阿部くん。ご、ごめんね・・・オレ」



―――書いた紙は何処に挟んだ?教科書だ。


「今日、借りた教科書に、は、挟まってて・・・。オレの名前書いてあった、から・・・」




―――俺はあの手紙の最後に、なんて書いた?



「お、オレでも、う」

「うわああああっ!!黙れ黙れ黙ってくれ!!」
―――黙れ、そして返せ!!


「嬉しかった、よ!」


黙れと言った俺の言葉は間に合わなくて。
三橋はと言えば、怒鳴られたくせにひどく嬉しそうな顔をしている。あぁ、と三橋に気づかれないよう内心で溜め息をつきながら俺は項垂れた。
あんなに嬉しそうな顔を見せられたら、俺の気持ちの天秤も「なんで勝手に読むんだよ!」という怒りより、「あんな笑顔を見れて俺も嬉しい」の方にぐぐっと偏ってしまう。


「ああ・・・、判った・・・」

手紙はお前が持っていて良いよ。
それは確かに俺の気持ちだから。
だから、頼むから俺の顔がお前に負けない位赤くなってる事には



気づかないでくれ―――




end