【櫻花に寄せて。ー傾城傾国・9ー】




パラレル・どこかの時代、どこかの国で。
(あるいは、『白梅香る』と対になるお話。)








うららかな春の日差しの中、緩やかな萌葱色の裾をひくと、さわさわと草の揺れるような音がした。
殆ど白に近い生成から、水に溶ける寸前のような薄い緑。段階を踏んで濃く明るく滴るような萌黄色の衣が重ねられている。触れると掌に吸い付くようでいて、さらりと流れる感触は、これが相当に希少な織物である事を如実にしていた。


「廉?」


前を歩いていた隆也が振り返って此方を見た。どうしたのか、と尋ねる黒い双眸は鋭く見えるが、奥に宿る光は優しい。どこか落ち着かなさげに衣の袷を握りしめる廉に、隆也は少し微笑んでから、問いかけを言葉にした。

「その衣は、気に入らなかったか?」
「・・・・・・っ!」

途端に、淡い色の髪が力強く揺れた。
併せて柔かな萌黄色の袂も揺れて、浮き上がるように織り込まれた小鳥の地紋が羽ばたくようにさざめいた。柔らかな日の光を反射して、まるで命を宿しているかのような小鳥達の動きは、俯きがちな廉の表情をも心なしか明るく見せるようだ。
隆也は愛人にゆったりと近づくと、額にかかる乱れた髪を指ですくった。

「では、気に入ってくれたんだな」

返事は無い。声が出ないのだから当然のことなのだが、俯かれてしまっては表情さえも判らないではないか。しかし、覗き込むような隆也の視線に、廉は益々細い身体を縮込めてしまう。

「・・・・・・廉?」

呼びかける優しい声には、いつまでたっても慣れる事が出来ない。
それどころか、見つめられている部分の皮膚が、ちりと焼け付くような感覚を覚えて。廉は、今度は弱々しく首を振った。

「――どっち、なんだ?」

(――どちら?なに が・・・・・・)

投げかけられた問いの意味を掴み損なって、途惑った色が淡色の瞳に浮かんだ。だが直ぐに、主の困惑した声を耳にして我に返った。

「廉、どこか具合でも悪いのか?それならば遠駈けは明日にでもするが・・・・・・」
「・・・・・・ぁ」
「部屋に戻ろうか。少し横になったらいいだろう」

労りの言葉に滲む微かな落胆。それでも、例えようのない焦燥感に、暖かな声が染みてくる。
この感情を、なんと説明すればいいのだろうか。
嬉しくない、訳ではない。でも、無邪気に喜んでみせる自分など廉には想像出来なかった。

――本当は、きっと、嬉しい、のに。

問いかけられているのは己なのに、どこか他人事のような思考はどうしてなのだろう。己の気持なのに、思い通りにならない。いや本当は判っている。慣れていないだけなのだ――無条件の好意という物に。
そして、上手く説明など出来ないもどかしさに――たぶん、声が出ない。それだけの為ではない――廉は伏せた睫毛を震わせた。

「廉――そんなに、」

困った顔をするな。と慰めてくれる隆也の言葉に、申し訳なさも募るばかりで。


「っ・・・・・・ぁ!」


本当に、どうすればいいのだろう。
乾いた喉に細い指を当てて、廉は息を吐く。
何時からだろうか。
声が出る事を本気で望んでいる自分に、廉は気付いていた。
だが、どんなに掻きむしろうと、血反吐を吐くような勢いで呻こうと、そんな方法で声が出ない事も知っている。

(たかや――)

黄金の檻で囀る小夜啼鳥のような、美しい声はいらない。
でも、ほんの一言でいいから、彼に伝わる『声』が持てればいいのに――












「・・・・・・廉?」

祈りのような、心の中で呼んだ名前に振り返るように、隆也が視線を合わせてくる。

(――そんなわけない、のに)

だから、錯覚してしまいそうになる。
自分の『声』が隆也に届いているんじゃないかなんて。


「廉」
「・・・・・・っ」


伸ばした手は、違えることなく握りしめられる。思いがけず飛び込んできた華奢な背中を遠慮無く抱きしめると、ほんのりと染まる耳朶に口付けしながら隆也はゆっくりと囁いた。


「嬉しいなら笑ってくれるだけでいいから。お前が気に入ってくれる事が、俺には何よりもの褒美だ」


腕に込められた力の強さが、言葉の真意を裏付けている。藻掻くことも忘れた廉の視界に一片の白が舞い落ちた。


(隆也――)


二人が立ちつくす渡り廊下の向こうには、光さえも華やかに彩られているような春の景色が広がっている。この美しい景色も、抱きしめてくれる腕の力強さも、優しい声も、どんなに時間が経っても忘れる事は無いだろう。確信にも似た想いは廉の心を震わせた。





(隆也。――ありがとう)





届かない言葉を胸の内に抱いて、瞼を閉じて温もりに身体を預けると、重なり合う鼓動の音だけが聞こえてくる。
甘やかな空気の中、春の草原のような衣の裾に、季節外れの雪のように櫻の花弁が薄く降り積もっていた。