【白梅香るー傾城傾国・8ー】
パラレル・どこかの時代、どこかの国で。
頬を、冷たい風がきっていく。
強い風で柔らかい髪が乱れるのは気にならなかったが、揺れる度に巻き起こる埃で少々目が痛い。
「廉、目が痛むのか?」
瞼を擦る仕草を目敏く見つけたらしい背中の温もりから、低い声が響く。両脇から抱え込むように伸ばされた手が手綱を引くと、二、三度嘶き声をあげてから黒馬は速度を弛めた。
「・・・・・・」
廉は僅かに後ろを振り返ってから――一瞬でその行動を後悔した。
主人の黒い双眸が凝と覗き込んできたからだ。強すぎる視線に晒されて、反射的に身体が逃げを打つ。尤も、馬上にそんな余裕があるわけではないので、実際には僅かに身を捩ったようにしか見えなかっただろう。
「廉?」
訝しげな声から顔を背けると、廉は意識を目の前の景色に集中させようとした。
風に揺れる艶やかな毛並みの向こうに、まだ頭頂に白い雪を冠したままの峰と、枯れ草の合間から所々萌え出でた緑が見える。蹄が踏みしだく土の香りも、冬には無い暖かな成分が含まれているようだ。
大気全体が、新しい生命に満ち始めている。
吹き付ける風に微かに混じる甘い匂いは、早春に咲きこぼれる白梅だった。
◇◆
遠駈けに出かける、と唐突な触れがあってからすぐに、前庭に引き出された馬の背に乗せられた。
「・・・・・・っ」
気遣いに溢れたとは言えない馬丁に押し上げられて鞍の上に乗ったが、その事を咎める気にはならなかった。
それよりも、久しぶりの感触に懐かしさが込み上げてくる。
ここに来る以前、まだ故郷が平和だった頃は、廉がこうして馬に乗る事も少なくなかった。
何処までも続く草の波を駈けてゆくのは、まるで自身が風になったように気持が良い――
束の間の思い出に浸りかけていた廉だが、ふと、馬に目をやると随分と大柄な事に気がついた。
そして大きさだけではなく、見事な黒い毛並みは非常に質の良い手入れが行き届いていたし、付けられている馬具も装飾と実用を兼ね備えている立派な一揃いだ。
柔らかそうに見える鬣も綺麗に編み込まれていて、先端には毛並みと同色の黒曜石の玉が留められている。廉はその一房を手に乗せて、感嘆の息をついた。
(すごい、馬だ――)
王に献上されるような馬なのだから、多くの中より選りすぐられた、とびきりの一頭なのだろう。素晴らしいのも当然だ。
しかし、選ばれた馬、選ばれた道具。
自分とはひどく不釣り合いな気がして、自嘲にも似た感情が唇の端を歪ませる。だが、
(こっち、を見ている?)
ふと視線を感じて其方を見ると。ゆっくりと頭を振っていた馬が、背中の見慣れぬ人物に目を留めていた。濃い墨を溶かし込んだような生き物の瞳は至極穏やかで、深い黒水晶の表面は廉の姿を克明に写しだしている。
「・・・・・・」
鬣から手を離して身を乗り出すと、伸ばした指先に温かい息がかかる。親しみを感じさせる仕草に、ほんの僅か残っていた緊張も緩やかに解けていく気がした。
(優しい、目を、してる。)
「――怖く、ないんだな」
「・・・・・・っ!!」
そんな折、ふいに掛けられた声に、伸ばされた指先が怯えたように丸まった。
背後から近づいてくる気配を間違う事は無い。
ゆったりと尾を揺らしながら馬が振り返ったのとは対照的に、廉は身動ぎもせず馬上で息を詰めた。
「お前を先に馬に乗せたと聞いて急いで来たが、心配する事はなかったな」
呼びに来た女官を怒鳴りつけてしまったから、後で詫びの代わりに菓子でも与えておこう。笑いながら聞かされた言葉に、廉は己が怒鳴りつけられたように痩身を震わせた。
「廉――?」
途端、主の表情が、ほんの僅かだが強張るのを感じる。
それ以上、傍に来ないで欲しい――口にする事は決して許されない望みを掌に握り込んで、廉は俯いた。
「――やっぱり、怖いのか?」
「・・・・・・」
返事をしないまま固まっていると、動くな。という呟きが聞こえて、手綱が引かれる。
だが、馬から下ろされるという廉の予想に反して、金具の軋む音。大きく揺れた視界に淡色の瞳を瞬かせている間に、もう一人分の重みが馬の背にかかっていた。
「こうすれば、落ちる事は無い」
後ろから痩身を抱きかかえるように手が回される。
慣れた様子で手綱を引くと、黒馬は滑らかな足取りで歩き始めた。
軽やかな音を立てて草原を駆け抜けてゆく。
久しぶりに味わう「外」の空気は、自然の息吹をそのまま受け入れているような充足感を廉に与えてくれた。
背中から伝わる熱を意識さえしなければ、久方ぶりに気持が良いと素直に思える。
「――廉、どうだ?」
流れる景色に目を奪われていたので、反応が遅れてしまった。
それでも短い問いかけに首を傾げると、黒繻子の袂から柔らかな絹の布が手渡された。
「まだ、涙が出ている」
「・・・・・・」
「それで拭いておけ」
それきり会話は途切れた――これを会話と呼べるのならば、だが。
廉は受け取った布を目元に当てることなく、ただ強く握りしめた。溜め息を零されたとしても構わなかった。案の定、低い吐息が聞こえた。
「廉――呼ばれるのは、嫌いか?」
「・・・・・・(き、らい?)」
それはどういう意味なのだろう。主の真意を図りかねて廉はまた細い首を傾げた。
「俺が勝手に付けた名前だからな――『廉』は」
「・・・・・・ぁ」
「声が出ないのは知っているが、言葉は分かるんだろ?」
「・・・・・・」
「『廉』と呼ばれるのは、嫌いか?」
どうやら彼は、反応の薄い理由をそれと考えていたらしい。
思いも掛けぬ問いかけに、廉は途惑った。
好きか、嫌いか、なんて、そんな問題は考えてみた事も無かった。それどころか、この境遇になってからの廉は考えること自体を放棄していた、とさえいえた。
(名前が嫌いだ、なんて。そんな事、思いついたことすら、ない)
「廉?」
だから、突きつけられた問いに頷く事も首を振る事も出来ない。呆然と揺れる瞳に、問いかけた方の困惑した顔が映っている。
「では、質問を変えよう。俺の名前は知っているか?」
(この人の、名前――)
「・・・・・・」
今度の問いかけには、廉の唇も滑らかに動いた。だが、音もなく紡がれた名が、誰もが呼ぶ敬称である事に彼は眉を顰めた。
「その呼び名では無い。俺、の名前だ」
(な、まえ――)
黒い髪。黒い眸。強い声。国を統べる地位。全てを己の意のままにする事を許される彼を呼ぶのに、個人の名前が必要なのだろうか。
だが、全て満たされている筈の王が、これ以上欲する物を廉は知らなかった。
「知らなかったのならかまわない。だが、今からは――」
「・・・・・・」
「俺の名は、決してそれ以外では呼ぶな」
それは廉にしてみれば、純然たる命令だった。
(呼べない、のに・・・・・・)
廉の声は出ない。
呼べない名前に、何の意味があるのだろう。しかし彼は廉の主で、彼がそうと望むのならば廉には従う他は無い。
促されるままに、小さく唇を動かした。
「・・・・・・(たか、や)」
◇◆
その刹那。
音が落ちてくる。と廉は、思った。
◇◆
己の耳にすら届かない声が、一片。まるで白梅の薄い花弁のように、胸の内に降ってきた。
突然湧き出たこの不思議な感情に、不安が掻き立てられる反面、奇妙な安堵感もある。
(これは、何――?)
騒ぐ胸を押さえるように、袷を繊手が握りしめる。
瞼を固く閉じても、聞こえない筈の音がいつまでも頭の中を反響しているようだった。
「そうだ。そう呼べ。それが俺の名前だ」
「・・・・・・っ」
「廉、呼んでくれ。俺の名を」
これは、約束だからな。と満足げに笑った隆也の顔を、廉は見ていなかった。
◇◆
黒檀の細工窓から早春の風が吹き込んでくる。
蒼く澄んだ空を切り取ったような小さな花器が、卓に置かれていた。
遠駈けの土産として折りとられた一枝の白梅だけが、二人の約束を知っている。