【雪蛍ー傾城傾国・6ー】




パラレル・どこかの時代、どこかの国で。






薄く開けた扉の隙間から、じん、と爪先まで痺れるように冷たい空気が流れ込んでくる。夜明けが遅くなった割に景色が明るいのは、昨晩降り積もった雪の所為だろう。一面を純白に埋め尽くした結晶は僅かな灯りさえ反射して、庭園の隅々まで照らし出そうとしているようだった。
音を立てないようにゆっくりと、細い指が更に扉を押し開ける。微かな軋みも感じさせずに、白く染まった庭園が現れる。

耳殻も鼻先も忽ち赤くなるような冷気に躊躇う様子も見せず、廉はそっと部屋を出た。






さくさくさくさく。
耳の奥が痛くなる程、音のない世界。ほろほろと足下で崩れる雪の音も、周囲の白さに吸い込まれるように消えていく。だが、確たる声の出せない廉にとって、音のない世界はさして怖しい物でもない。それに、

(本当に、音が無いわけじゃない――)

耳を澄ませば、何処かの枝の先端からほとりと落ちる雪の音。常緑の葉を微かに揺らす細い風。山の端に日の光が滲むのに併せて、どこからか鳥の声が聞こえてくる。

「・・・・・・」

ふと、足を止めて辺りを見回せば、扉を開けた時とは異なる温かい光に世界は満たされ始めていた。夜が明ける。白い月は隠れ、眩い金色に掌も熱を持つ。滑らかな雪の表面に規則的に並ぶ足跡の窪みに、蒼い影が落ちる。
静謐の世界の中、目的の物を探して廉は榛色の睫毛を瞬かせた。白さに埋もれている所為で常より見つけにくいのかもしれない――否。寧ろ、一欠片でさえすぐに見つけることが出来る。

(見つけた――)

そっと伸ばされた繊手の先に、紅い実の房が緩やかに頭を垂れている。

血よりも紅く、深海の珊瑚玉のように艶やかな連なりは、僅かに霜を纏ってなお鮮やかな存在を放っていた。

(良かった。今年も見るコトが、できた・・・・・・)

昨冬の折りよりも木が生長した為か、廉の視界は豊かな実りの天蓋によって覆われる。紅い、しかし自然の息吹に満ちた色に廉は唇の端を柔らかく綻ばせた。




◇◆


さくさくさくさく
当初の目的がかない、胸の内に暖かな色を抱えながら廉は歩いていた。漂う吐息の靄も、冷たさよりも柔らかさを感じさせるのは、やはりあの「紅」のおかげだろう。剥き出しの爪先が寒気によって痛々しい程に赤く染まっている事も、欠片も気にならないくらいに。
自分の踏みしめた後を辿りながら、やがて軒の端にたっぷりと雪を積んだ渡り廊下が見えた時

「――っ!」

廉は、こちらに向かってその字のごとく仁王立ちになっている人物に気がついた。

(隆也――!!)

誰に指摘されなくても、その人物が不機嫌きわまりないのは明らかだった。少し強ばった肩の線も、時折握りしめられる拳も。
そして何よりも、黒い双眸がまだそれなりの距離を飛び越えて、凝と廉に向けられている。僅かに細められた眼は厳しい色を隠そうともしない。我知らず廉が身震いしたのも足下の雪の所為ではなく、その視線の鋭さの為なのだ。

「廉――」

隆也の低い声が、静かな庭園に響く。ざ、ざ、と雪を踏みしめる音が近づくのに、廉はどうしようもなく逃げたい衝動にかられた。自分が間違っていたのは判っている。充分に判っているつもりなのだが――

「廉っ!」

僅かに身を翻そうとした所を引き戻される。苛立ちを含んだ眼差しは、そのまま細い手首を捉える力になった。

「廉っ!!そんな薄着で出歩くなと、何度言ったら!」

耳元でがなりたてるような勢いに思わず身が竦む。随分慣れたつもりだったけれど、薄い身体は条件反射で縮こまる――しかし、ふと緩んだ手首の戒めに、彼がその事に気づいたのが分かった。

「・・・・・・悪い」
「・・・・・・っ」

先ほどの激しさが嘘のようにして、緩やかに熱が離れていく。小さく呟かれた謝罪の言葉は何度聞いても慣れる事は出来ない。彼らしく無い、と言ってしまえばそれだけの事なのかもしれないが、廉は隆也に謝って欲しいと思った事など一度も無かった。

「大丈夫か?廉。」

ゆるりと肌に触れる感触に目をやると、握りしめられていた部分が赤くなっている。
心配そうに顰められた眉に、そんな顔をする必要は無いと言ってしまいたい。この声が出るのならば、もう何度も伝えているけれど。

出せない音の代わりに淡い色の睫毛を少し伏せると、廉は優しすぎる主の頬にそっと唇を寄せた。






「せっかくまだ朝早いのだから、寝直すか」

部屋に戻るなり、隆也は廉を寝台の上に抱え上げた。提案の答えを聞く前に実行に移している――ささやかな反抗を示すように尖らされた廉の唇を見て、彼はひどくおもしろそうに笑った。

「廉は眠たくないのか?」
「・・・・・・」

首を小さく横に振る。
眠くなんて無い。
隆也はまだ早いというけれど、日はとっくに昇っている。二度寝を決め込むには部屋が明るすぎたし。それよりも、と廉は微かな不安を滲ませた瞳を隆也に向ける。

「どうした?何かあったか」

もどかしげな視線に気づいて、隆也が身を乗り出してくる。漆黒の生地と同じ色糸を使用した刺繍は、間近で見ると触れるのが怖しいくらい手の込んだ意匠が凝らされている。今にも飛び立ちそうに大きく翼を広げた一対の鳳凰。だが、その見事さに溜め息をつくより、近づいた事で鼻先を擽る薫りに廉の胸がとくりと跳ねた。

「・・・・・・ぁ」

ふいに、頬を駆け上がってくる熱を逸らすようにして廉は俯いた。重ねて「どうした?」と問いかけてくるのにも顔をあげることが出来ない。

「廉どうした?気分でも悪いのか?」

どうした、も、こうした、も、ない。どうして隆也はこんな時に察しが悪いのだろうか。いつもなら、言葉の無い廉の気持ちを驚くほど正確に汲み取ってくれるのに。見当違いと分かっていても、思わず非難がましい目付きを向けずにはいられなかった。

「――っ(な、んで――)!!」

しかし、思わずあげてしまった顔をこれほど悔やんだのは、廉にしてみても予想外だった。唇の端を微妙な角度に歪めながら笑いを押し殺している――隆也の顔と鉢合わせてしまったからだ。

「っ!っ!!」

振り上げられた白い手が隆也の広い胸を打つ。「痛い、痛い。」と言いながらも、それを楽しげに受け止めると。細い身体を抱き込むようにして、王は柔らかな絹布の上に身を横たえた。

「大丈夫だ。お前が心配してくれているのが朝議なら問題無い」
「・・・・・・」
「あれくらい俺がいなくても関係無いからな。宰相達がなんとでもするだろう」

やはり、廉の伝えたい事を承知していたらしい。その証拠が、腕の中の薄い身体が強ばる気配に隆也が人の悪い笑みを浮かべた事からも分かる。

「だから、機嫌直してくれないか?」

隣国から届いた甘い菓子も用意しているから。からかわれてしまった悔しさから胸に顔を埋めたままの愛人の髪を、ゆっくりと手で梳きながら隆也は続けた。

「なぁ、廉?」

柔らかい癖毛の間からのぞく廉の耳殻が朱色に染まっている。顔を上げられない理由を充分に知っていながらも、隆也の言葉は止まらない。それどころか、固い指が耳の後ろを擽り首筋を撫でる。肌の上を走る怪しい感覚に、廉の呼吸は止まりそうになった。

「・・・・・・ぁ!」
「ああ、やっとこっちを見てくれたな」

結局、ついには耐えきれなくなった廉が薄らと涙を浮かべた目を向けるまで、王の戯れは終わらなかったのである。





◇◆




廉。廉。れん――

何度繰り返し、この名前を呼ばれたのだろう。繰り返された数だけその響きは、廉の躯に染み通ってゆく。
新しい名前を与えられた時はまるで他人の名のようで。これからの自分の時間が偽りで塗り固められるようだと思ったのに。
今ではこの名前が、最初から唯一の名であったように自然に馴染んでいる。

「廉、どうした?」

軽い接吻の合間に、黒い視線が覗き込んできた。深い、深い黒眸に浮かぶ光は、彼の意志の強さ、生命の力強さを感じさせて、廉はひどく惹き付けられる。緩慢な仕草で隆也の首に腕を絡めると、耳元で微かに笑う気配がする。

「本当に、ねだるのが上手くなったな」

嬉しそうにそう呟かれると、途端に頬が燃えるように熱くなった。元々白い肌がこの朝の光の中で、どんなに隠そうとしても隠しきれない羞恥心に廉は身を捩る。絡めていた手をほどき、細い腕が隆也の胸を押し返そうとしたが、――体格の差は歴然としていた。

「・・・・・・っ!・・・・・・ぁ!」
「ほら、もういいのか?」

結局「どんなに足掻いたところで無理だ。」と当然の事を廉が悟るまで、隆也は抱きしめる力を緩めなかった。力の抜けた身体に、悪戯な笑みを浮かべながら隆也が唇を寄せる。

「・・・・・・っ」

薄い鎖骨の窪みに、花弁の潰れたような跡が落ちた。ひくりと震える目蓋が、羞恥で細かく震えている。
廉。
赤く染まった耳朶の横で、囁かれた名前は始まりの合図。







 俯せたな背中を愛おしむように、固い掌が辿っていく。軽く汗ばんだ肌は、吸い付くような感触を隆也の指に伝えているだろう。ゆるやかに隆起した肩胛骨の影、細い背筋を下がっていった手は、一瞬躊躇った後、廉の躯を仰向けにした。
 軽い衝撃でも、ふ、と吐息が廉の唇から零れる。

「廉――」

額に張り付いた前髪を隆也が優しく梳いている。その感触にうっとり目を細めると、猫みたいだな。と彼が喉の奥で低く笑った。
そんな風に笑う隆也の方こそ、機嫌の良い猫みたいだ。
擽るように触れてくる指先に、ことさら取り留めのない思考がぼんやりと流れてゆく。
隆也の手が全身に触れている間、廉の意識は波間をたゆたうように、深い場所と浅い場所を行き来していた。

「廉、いいか?」
「・・・・・・」
「大丈夫か?今日は――これくらいにしておくか?」

 具合が悪いなら、ゆっくり休んだ方が良い。心配そうな声と共に体温が離れてゆく。さっきまで、あんなに傍にいたのに。急速に現実味を帯びてくる肌寒さに、不安と寂しさと――悲しみが湧き起こる。
 お願い、行かないで。
 こんな時、声を出せたらと思わずにいられない。気遣われるよりも、離れて行かれる事の方が余程辛いのだ。
光の見える方向に縋るように伸ばした手が

「廉、廉。廉――」

 しっかりと握られる。繰り返し呼ばれる名前。しかし、その事に安堵する暇もなく

「っぁ!・・・・・・!」

全身を襲った衝撃に廉の痩身が震えた。
一息に深く貫かれて、そのままの体勢で揺すられる。自分の身体の中にこんな奥深く、他人を受け入れられる場所があるなんて信じられない。爪先から頭の先まで痺れる。指一本さえ自分の思うように動かない。しかも、それが少しも辛くないなんて。
何度も繰り返し身体に刻まれた感覚は、快楽と呼ばれる物だと廉にも判っていた。

「・・・・・・ふっ、廉。れん。」

熱く、熱く。全身を溶かすような強烈な刺激に、思わず目の前の背中をかき抱いてしまう。奥まった部分に感じる熱は、身体のどの部分よりもはっきりと互いの存在を感じさせた。
汗で滑りそうになるのを必死で齧り付くと、溜め息にも似た低い声が聞こえて隆也の腕にも力が籠もった。言葉にならない感情が薄い皮膚一枚を通して伝わってくる。

(隆也――)

 気付いた時には、必死にその名前を呼んでいた。彼の耳に届くはずもないのに、呼ぶことを止められない。

(隆也。隆也。隆也――っ)

酸素を求めて開かれた廉の唇に、荒い息が混じり合う。無意識に伏せた淡色の睫毛の下から堪えきれなかった涙が一滴滑り落ち、それを拭うように隆也の唇が触れた。

(隆也・・・・・・)

廉。
だが、そう呼ばれた記憶を最後に、一段と強い波に襲われて。

「・・・・・・っ!」

悦楽の坩堝に放り込まれた廉の意識は、明るい光の中にゆっくりと融け込んでいった。







「なぁ、廉。悪かった。言い過ぎた」

寝台の上で、何故か主より一番遠く。今にも床に落ちそうな場所で廉は敷布を身体に巻き付けると、隆也に背中を向けていた。
それは部屋の隅々まで白い光に満たされている中で――必死に影を見つけて隠れようとしている小動物のようだ。

「廉?」

近づいてくる優しい声音から更に逃げるように、廉は身を縮こませた。潜り込んだ絹布が、さらさらと柔らかな音をたてる。柔らかな肌触りだけに意識を集中していたいのに、どうやら許してもらえないようだ。

「大丈夫か――廉?」

睦言で甘く満たされた時間が過ぎてしまえば、後に残るのはささやかな幸福感と、反芻しきれない羞恥心だ。それに、行為に対する物慣れ無さを不安に思う部分もある。それでも
廉。
名前を呼ばれると、じんとした痺れが背筋に走った。
その事実を知ってか知らずか、隆也は二人の間を詰めると、布に包まれたままの細い身体を抱きかかえた。無理矢理に近い勢いで細い顎を持ち上げて、王は愛人の顔を覗き込もうとした。

「やっぱり、眠いか?」

視線を俯かせていると、先ほどと同じく唐突に問いかけられた。思わず琥珀色の眸が丸くなる。だが、的外れな問いかけだと責めるには隆也の瞳は明らかに笑っていた。

「っん!」
「悪い、悪い。眠くないのなら、今日は久しぶりに宮の外にでも出かけるか?城の外も雪が積もって、見事な眺めだぞ」
「・・・・・・ん!」
「雪見が嫌なら部屋で過ごすか?俺としては、お前の琴を聞いて過ごすのも悪くないな」

藻掻く廉をものともせず、隆也は愉快そうに笑う。ただ、その笑いに、何処か空虚な物を感じて、廉は動きを止めて主の顔を見上げた。

「廉はどっちがいいのか?」
「・・・・・・ぁ」

優しい声に、ふいに思い出す。今朝方、先触れもなく朝議を放り出した彼の人は何と呟いていただろう。

『あれくらい俺がいなくても関係無い。』

浮かんだその言葉の真意が分からなくて、廉は不安だった。
自分がいなくても。と、隆也の呟きに自嘲めいた色が滲んでいる事は、さながら小さな棘のように廉の胸に刺さったままだった。それでも、隆也に不安気な表情は見せられなかった。
隆也はそんな事を望んでいない。

(一緒にいるだけでいいから。)

広い胸に顔を寄せると、規則的に響く鼓動に静かに耳を傾けた。





◇◆



寄せ木で繊細な草花が咲き乱れる卓の上に大きな菓子鉢が据えられている。中身は先刻の隆也の言葉通り、甘い菓子が山と盛られている。

「廉、食べないのか?」

 つまみ上げた菓子を指先で遊ばせながら隆也が廉の顔を覗き込んだ。甘い物が苦手な王が最近喜んで受け取る菓子は、南国の果実がその組成の大部分を占めていて、口に含むと独特の強い甘味と香りが鼻を抜ける。
気紛れに菓子の端を囓った隆也は思いきり眉を顰めると、食べかけのそれを再び菓子鉢に戻してしまった。

「・・・・・・」
「廉が食べないのが悪いんだろ」

咎めるような榛色に、僅かに焦った風な言い訳は明らかに失敗だった。細い手がつ、と伸びて隆也が戻した菓子を取り上げた。囓られた後も鮮やかなのを、隆也は訝しげな眼で見ている。

「・・・・・・れ、ん?」
「・・・・・・」

一瞬の沈黙。しかし、伺うような口調に躊躇する様子もなく、廉はその菓子の欠片を

「ぐっ!!」

 一息に隆也の口に押し込んだ。悲鳴をあげる間も無かった。
口から喉の奥までを占領する目眩のするような甘さに、掠れたうめき声だけが部屋に落ちた。
 



 甘過ぎる口中を淹れたての茶で洗い流していると、窓の外にちらと過ぎる物がある。

「・・・・・・っ」

 廉が窓辺に駆け寄った。

「また、雪か?」

 白い綿を細く裂いたような物が、薄墨に色を変え始めた空を舞っている。身を切るように冷たい風に揺らめく姿は雪としか言いようがないのだが、傍らに立つ廉は小さく首を振った。

「雪じゃないのか?」
「――(雪、じゃない、よ)」
「そうか・・・・・・」

向けられた視線に、肯定の言葉を汲み取って隆也も頷いた。自分には雪にしか見えないが、廉が違うと伝えてくるのだから雪では無いのだろう。こんな些細な事の確認も、言葉の無い廉とは解しきれない澱が残ってしまう。
それでも。と隆也は自らに寄り添う存在に意識を集中した。
柔らかな熱。柔らかな匂い。
どんな事があっても手放せないと気がついたのは、いつ頃だっただろう。湧き起こる愛しさと、同じくらいに滲む不安に目を背けながら「寒くなってきたから窓を閉めるぞ」隆也は細い身体を抱きしめた。




 雪の降る先触れに「雪蛍」が舞う。という話を隆也が知ったのは、この日から大分経ってからの事になる。