【雪兎ー傾城傾国・5ー】




パラレル・どこかの時代、どこかの国で。






さくさくさくさく。
軽い音をたてながら廉の足下で雪が崩れる。目に染みるような白い景色の中、ふっと息を吐くと、それもまた緩やかに白くたなびいて景色の中に溶けていった。
廉が歩いているのは、離宮の端に設えられた小さな庭園だ。公用で使われる事が無く、他の庭園に比べると簡素な印象は否めないが、その分人工的な香りの薄いこの場所を、廉は歩くのが好きだった。

『――様。廉様』

庭園を横切る渡り廊下から廉の名を呼ぶ声が聞こえる。おおかた薄着で出歩いている廉を見かねて――いや、違う。見かねて、というのは間違いでは無いだろうが、彼等が心配しているのは、廉が体調を崩す事によって、自分達がとがめられる事なのだ。
所詮、主が拾ってきた毛色の変わった慰み者など、噂の種にこそすれ労る義務など無い。
女官達が影でどのような噂話に興じ、嫉妬と憐れみの混じる視線を送ってきても、廉には草葉を揺らす風ほども感じられなかった。

さくさくさくさく。
誰もまだ踏みしめていない雪の表面に、廉の足跡だけがぽつぽつと続いている。「っ、」爪先に微かな痛み。足下を見ると、素足の指が赤く痺れている。用意された靴を履くのが嫌で(それがまた口さがない噂の元になると分かっていても)そのまま部屋を出た所為だ。立ち止まると鈍い痛みはやがて引いていったが、同時に皮膚の感覚も薄くなっていく。

(――吐いた息みたいに、このまま溶けてしまえた、ら)

思いつきのまま、この場に寝ころんでしまいたい気持ちに駆られたが、廉はすぐに頭からその考えを振り払った。どんな些細な物でも、叶うはずもない望みなど持たないと決めたのだ。
そろそろ部屋に戻ろうか――これ以上歩き回っていたら、部屋を出る事すら禁じられてしまうかもしれない。
一歩ごとに――本当に溶けてしまいそうな足を引きずって向きを変える。冷え切った爪先は、もう雪が冷たいとも思わなかった。



さくさくさくさく。
帰らねば、と思ったものの、踏みしめる感触の脆さに足が進まない。それでも機械的に体を動かしていると、この離宮の特徴である丹で朱く塗られた壁が視界に映る。それは、華やかで富と権力を体現しているような色。でも、

(朱は、あまり好きじゃ、ない・・・・・・)

沈む夕日、燃えさかる炎、流れ落ちる体液。記憶にある朱い色は、どれも悲しみしか呼び起こさない。指の間を流れる生ぬるい感触を思い出すと、じくりとした痛みが胸を刺す。
忘れる事は出来無い、決して。
それでも、目に入った景色を追い出すように目蓋を閉じる。

その、寸前、廉は雪の上にぽつりと落ちている物を見つけた。

(――赤い、実?)

見上げると、廉の頭の上から手を差し伸べるように垂れている枝に、赤い粒がたわわに実っている。この時期に珍しく豊かな実りの為か、それとも積もった雪の所為か、どちらにしても項垂れる枝先からこの一粒は落ちたのだろう。
染み一つ無かった白さの上に、あまりにも鮮やかな赤。
壁の色などと決して比較にならない。鮮烈で美しいその色に魅入られるよう、何時の間にか廉は実を拾い上げていた。そっと指先で触れると、しろい掌の上で小さな実がころりと転がる――



「廉っ!」
「――っ!!」

ちょうどその時、庭園の静けさを破るように低い声が響いた。荒々しさと同時に焦燥感を滲ませた声に痩身が振り返る。

『王、お待ちになって下さい――!』
『せめて――何か』

渡り廊下の辺りに人が集まって騒然としている。そして、遠目にも、その中から誰かが駈けてくるのが見えた。

(あ、れは――)

白い雪を蹴散らして、黒い影はすぐに廉の視界を覆うほど大きくなる。大きな手が伸ばされて細い肩を包んだ。

「廉、こんな所で何をしている?」

顔をあげる事が出来ない廉の視界に、黒繻子で覆われた爪先だけが目に入る。溶けた雪の為か、常よりも深い色に変わったように思える靴の主は、そのまま廉の主でもある。

「何か、不満でもあるのか?」
「・・・・・・」

赤い実を握り込んだ手をだらりと下げ、押し黙ったままの廉に溜め息が落ちた。気に入らない事があるのなら――調度でも、女官でもすぐに取り替えさせる。との提案には流石に首を横に振ったが、視線は相変わらず雪の上に彷徨わせたままだ。

「廉――」

咎められてもかまわなかった。不興を買って放り出されても――そもそも望んでこの場所にいる訳ではない――廉には気にもならない。それどころが、愛想を尽かしてもらえれば、懐かしい草原に戻る事が出来るかもしれない。最後に見た故郷が、朱い色に染まっていた事を思い出さないようにしながら廉は考えていた。
しかし、それもまた儚い望みだったらしい。

「すぐに部屋に戻るぞ。その足も湯につけないと、直に痛みで歩けなくなる」

廉の主――隆也。という名前は聞いていた――は、一方的にそう告げると、何故か自分の羽織っていた上着を脱ぎだした。

「・・・・・・っ!?」

柔らかく温かい感触に廉が目を見張る。漆黒に銀の地紋を浮かすようにして織り込まれた上着が、廉の肩を覆っている。厚い生地からじわりと他人の体温が移るのを感じて「っ、」廉は震えた。

「そんな薄着で出歩くなんて、正気の沙汰とも思えないからな。部屋に戻るまで俺の上着で辛抱しておけ」

廉の震えを寒さの為と思ったのか、隆也は薄い体を抱き寄せると、そのままの体勢で歩き出した。







さくさくさくさく。
さくさくさくさく。
重なり合う音を聞きながら廉は歩く。踏みにじられた雪が黒く汚れていた。寄せられた体から染みてくる熱が、心を落ち着かなくさせる。
背中から肩を覆う上着より肩に置かれた隆也の手が熱くて、何気ない風を装って外させようとしたが「どうした、寒いのか?」余計に強く抱き寄せられただけだった。

「――っ」

人肌の暖かさを感じると、今まで麻痺していた寒さもぶり返してくる。握りしめた指先を口元へ。痺れを追い払うように息を吹きかけると、僅かに緩んだ指の間から赤い実が転がり落ちた。

「――廉?」

だが、咄嗟に拾おうと身を屈めた廉よりも、隆也が手を伸ばす方が早かった。小さな実は、まるで指先を傷つけて溢れた血の滴みたいに、隆也の指先に止まっている。
鳶色の睫毛が瞬いて、その様を見上げた。

「そうか、お前はこれが気に入ったのか・・・・・・」

何処か感慨深げに呟くと、廉は掌を差し出すように命じられた。おずおずと出された繊手の上に一粒は戻ってくる。

「ほら、持っていけ」

軽い感触を握り込むと、黒い双眸を細めながら隆也が顔を覗き込んできた。

「庭園の端に植えてあった木に実っていただろう。あの木は毎年この時期が一番美しいんだ」

子供のように無邪気に語る表情に、廉は一瞬息を呑んだ。
そして、隆也の言葉を聞いているうちに、先ほど見た光景が脳裏に蘇る。細く長い枝先を項垂れさせる赤い房。白い景色の中で、それだけが「生命」なのだと思わせるような鮮やかさ。気に入ったのかと言われれば間違ってはいないのだが、その言葉に頷く事は自分の真意と少し異なるように廉は思った。
結果として、何の反応も示す事が出来ず、受け取った物をただ見つめている廉を見て、隆也は僅かに複雑な表情を浮かべる。

「まぁ、いい・・・・・・」

しかし。扱いづらい愛人に対して、この主人は実に寛容だった。

「そんなに気に入ったのなら、後で切り出して部屋に飾らせよう」

大ぶりの青磁の鉢にでも溢れんばかりに生けたら、さぞかし見事な眺めだろう。だが、何の気無しに語られた言葉は、予想もしない反応を引き起こした。

「――!」
「どうした。嫌なのか?」

珍しく感情を露わに浮かべた鳶色の瞳を、隆也は途惑ったように見返した。冷気の所為か、青白みを増した小造りの顔の中で、淡い色の唇が戦慄いている。

「・・・・・・っ!・・・・・・ぁ」

廉。呼びかけられても聞こえていないかのように、廉は首を横に振り続けた。怒りとも悲しみとも判断できない物に、薄い胸が締め付けられる。声が出るのなら、喚いていたかもしれない。感情のうねりに揺さぶられるまま、己の身体を抱きしめると、生暖かい物が頬を濡らした。

「っ!廉っ!」

痛みを覚えるほど強く掴まれた肩を、いっそ抉りとってしまいたい。身体を浸食しようとする熱から逃げたくて身を捩ると、僅かな隙も許さないと抱きしめられる。

「・・・・・・すまない。あの木は、そのままにしておくから」

許してくれ。耳元で囁かれた言葉がどれだけ希有なのかを廉は知らない。誰にも頭を垂れる必要の無い王が、何の力も持たない弱者に許しを請うている。


「――廉」


内容よりも切実な響きに惹かれて見上げれば、繰り返し降ってくる謝罪の言葉。軽率だった。悪い。そんなに大切に思ってるとは知らなかった。言い慣れぬ文句の羅列はぎこちなかったが、隆也の想いは伝わってくる。


「・・・・・・ぁ」


湧き起こった時と同じくらい唐突に熱が引いていく。ひやりとした空気を頬に感じて、廉は、涙がいつの間にか止まっていた事に気がついた。




◇◆




東の空が明け方の光に白く輝きだした頃、廉は目覚めた。
素足で踏み出した床は冷たかったが、相変わらず何かを履く気にはなれなかった。部屋の中には鮮やかな色糸を使った毛氈が敷き詰められている。だが、足先をそろりと撫でる感触の柔らかさや、西方の職人が苦心したという木や草や鳥が戯れる図案の見事さも、廉の興味を惹く事は出来ない。
凍り付くような大気からすると、雪はまだ溶けていないだろう。昨日のように渡り廊下へ続く扉の前に向かうと、廉はゆっくりと黒檀の引き手に手を掛けた。





(――これは、な、に?)


廊下に一歩、進めた足が止まる。廉の視線は足下に置かれた朱塗りの盆に向けられていた。子供のままごとに使うような小さな丸盆に、白い物が盛られている。

(冷た、い――ゆき)

触れる。指先にじんと通る冷たさ。雪はまるで椀を伏せたような形に固められていた。なんとはなしに盆を持ち上げると、染み一つ無い表面に赤い実が埋まっている――それも、二つ。
何かを連想させるその姿に、廉は華奢な首を傾げた。そして、同じ木から取ったのか、艶やかな緑色の葉が赤い実の両脇に添えられているのを見るに至って、ようやくこれが生き物を模している事に気がついたのだ。

(うさぎ、だ・・・・・・)

子供の手慰みのように拙い雪細工は、歪ながらもかろうじて兎の名残を留めている。そして、誰が用意したのかは知らないが、これが廉への貢ぎ物である事は間違いようだ。
この離宮の唯一の住人は、そう理解した。

(可愛い、な)






陽が高くなれば水になってしまう儚い細工に、そっと顔を寄せた廉の表情が、ここに来てから一番穏やかな物であったのを、送り主は知らない。

ましてや、子供の頃の記憶を掘り返し悪戦苦闘して作ったものの。出来上がった雪兎の不格好さに、嘆息しながら置いてくるしかなかった送り主の事情を、廉は知らない。