【海神(わだつみ)の追憶ー傾城傾国・4ー】




パラレル・どこかの時代、どこかの国で。






柔らかな眠りから掬い上げられるように、隆也はゆっくりと目蓋を上げた。

だが、すぐに髪を撫でてくれる感触が優しすぎて、このまま起きてしまうのが惜しくなった。廉が気づいていないのをいいことに、再び目を閉じると、枕代わりに頭を乗せていた膝がじりと動く。さら、と衣擦れが微かに響いた。

(――そういえば・・・・・・)

自分が廉の膝に頭を預けてから、何刻経ったのだろう。薄く目蓋を持ち上げて考える。微睡んでいるだけのつもりだったのに、窓から差し込む日の光が記憶より低い位置になっている。

「しまった――!」
「・・・・・・っ!」

どんなに辛くとも、廉は声に出して訴えられないのだ。どれだけの時間我慢させてしまったのか。跳ね起きるようにして体を起こした主を、鳶色の瞳が瞬きを忘れたかのように見つめた。

「廉、」

呼びかける声に細い首が微かに傾げられると、華やかな香りが漂った。衣裳に焚き込められた香の所為だろうか。西方の商人に献上された品は、異国の艶やかさを想像させるよう、強く鮮やかな匂いがする。だがそれは、隆也には些か鼻を突く、高価だが、高慢な娼婦を連想させた。
極彩色の絹布に囲まれても、ひっそりと身を縮めるような廉に、これは似合わない。
飾り窓から流れる雲を眺めている、儚げな横顔。俯いたしろい項。
合わせるなら、月下に花弁を綻ばせ、人が触れたらすぐに散ってしまう。そんな華の香りが似合うだろう。
(――探して、みるか)
偶然思いついたにしては良い考えだった。次は、そんな香を求めて廉に贈ってやろう。月長石を削りだした香炉か、それとも螺鈿で花を模った細工箱にでも入れて。
しかし、隆也は考えた事を口にはしなかった。先日贈った琴を廉はひどく気に入ってくれたがようだが、その後贈った高価な物に対しては、全くと言って良いほど反応しなかったからだ。代わりに、

「また、お前の琴が聞きたいが、いいか?」

伸ばした指先が、明るい色をした前髪をなぶる。あれ以来、こんな風に触れても怯える事は少なくなった。だが、真っ直ぐに向けられた視線に心地よさを感じる暇もなく、小さな衣擦れの音と共に廉が立ち上がる。衣の裾に施された金糸の刺繍が、微かな光を反射して花と鳥の意匠がまるで生きているかのように蠢いた。

戻ってきた白い手には、楽器が握られていた。





細い弦が震える度に、草原をわたる風のような、寄せては返す波頭のような、さざめきが部屋に満ちる。

「お前の弾く歌は、海の音を思い出させるな」

隆也は、ふと呟いた。

「草原の楽器なのに、おもしろいものだ」

しかし、「海」と聞いて廉が途惑った表情を浮かべるのを見て。

「廉は、海を知っているか?」

緩く横に振られた頭が廉の答え。そうか、と頷いた隆也は窓辺まで歩くと、そこから山の彼方に視線を投げた。黒々と連なる稜線に赤い光が滲んでいる。もう半刻もしないうちに辺りは闇に包まれ、城内に火が灯されるだろう。


「俺の生まれた所はな、海の傍だったんだ」


この峰の向こう、この場所からは見ることも叶わない遙か遠くに海がある。
隆也の唇から零れた言葉に、一番驚いたのは本人だったのかもしれない。




◇◆



のけぞるように差し出された滑らかな肌に口づけると、堪えきれない振動が伝わってくる。
滲む汗は仄かに草の香りを帯びていた。湯浴みをした為か、それとも交わる汗に流されたのか、造り物の花の匂いは廉の躯から綺麗に消え失せている。

「廉・・・・・・」

二人の重みがかかる寝台は薄絹の天蓋に覆われて、誂(あつら)えられた敷布はしっとりと光沢を帯び、夜の海原を思わせるように深い藍色だ。囲われた世界の中、外界の気配から意識を閉ざせば――海中をたゆたっている気さえした。

「っあ・・・っ!」

体を揺らす度、うねる波の合間から助けを求める白い手が伸ばされる。隆也は水底に引き込まれるような錯覚を覚えた。
首に絡みついた腕に身を任せると、『海』が近くなる。

「れ、ん・・・・・・廉」
「・・・・・・ぁ」

どんなに強く抱きしめても、油断すると抜け落ちてしまいそうなる痩身。穿つと銀色の魚のように、白い腹をしならせて寝台の上を跳ね回る。
まるで囚われる事を厭うかのように。
隆也の口から漏れた溜め息は、快楽のそれではない。愛しい相手は確かにこの腕の中なのに、心許なさばかりが先に立ち、迷った想いがそのまま溢れ落ちた。

「ああ・・・・・・」

我ながら情けない限りだと自嘲すると、耳元に微かな痛みが走った。

「なっ・・・・・・廉?」

身を起こそうとすると、逃すまいとするつもりなのか、思いがけず強い力で引き寄せられる。細い足が腰に絡みつく。痛みの正体が、己の耳の端に廉が歯をたてたのだと分かって「お前は・・・・・・」隆也は、別の溜め息をついた。

「いつの間に、そんな事を覚えたんだ?」
「・・・・・・んぁ」

虚ろな光を映した瞳が瞬いた。どうやら意識しての行為ではなかったらしい。だが煽られてしまった方には、そんな言い訳も通用しなかった。
華奢な腰を掴んで強く押しつける。

「っ・・・・・・ぁ!」

柔らかな唇と、晒け出された咥内の紅さに誘われるよう口吻る。舌に残る微かな塩気が、昔日の記憶を刺激した。

「お前は、俺に、何をしろというんだ?」

束の間蘇った追憶は、儚い色をしている。呼びかけても振り返らない、触れる事も許されない。
憧憬というには苦すぎる。もう二度と手の届かない光景は、決して微笑まない愛人とひどく似ている様に思えた。
見開かれた鳶色の双眸が、窓から差し込む薄明かりに揺らめいている。その表面で、波頭が砕けるように愉楽の欠片が浮かんでは消えた。


「――廉」


掠れた嬌声が波間に沈んでゆく。




◇◆




「俺が生まれて育ったのは、海の傍の城だった――」

くたりと肩にもたれ掛かる廉が微かに身動いだ。だが、俯いた顔を覗き込むと、鳶色の睫毛は伏せられたままだった。眠っているのかもしれない。抱き込んだ腕はそのままに、隆也は話を続ける。

「何もなければ、そのまま地方の小さな城の跡継ぎで終わっていたんだけどな」

小国の領主という地位に不満があった訳ではない。口にしてから、今更のように気がついた。むしろ、自分はそうなる事を望んでいたのだ。平凡だが穏やかな日々は、手をすり抜けてから、その価値が分かった。
だが、様々な要因が絡み合った結果、隆也は欲したつもりもない至高の椅子に座る嵌めになった。
互いの血肉を喰らい合うような争いをしてまで得られなかった者もいるというのに、必要としなかった者にそれが与えられるとは運命の皮肉さなのだろうか。
いっそ、玉座など投げ捨ててしまおうかと思った事も一度ではない。

「ああ、でも、そうしたら――」

微かな寝息が聞こえ始め、隆也の口元が小さく緩む。

「俺達は、出会っていなかったな」

随分と女々しい発言だと思われるかもしれない。それでも、子供のように稚(いとけな)い寝顔には、嘘などつけなかった。

「それだけは、良かったと思っている」

こくりと廉の頭が落ちる。眠りが深くなった為の動きなのだが、隆也にはそれが廉の同意のように感じられた。肩から伝わる温もりが、全身に染みわたる。微笑んでくれなくても、今はこれだけで充分だ。

少し汗ばんだ廉の髪を梳きながら、耳元でそっと囁いた。




「いつか――」


共に、海を見に行こう。

潮騒を聞きながら、その時は、お前の故郷の話をして欲しい。