【草原情歌ー傾城傾国・3ー】




パラレル・どこかの時代、どこかの国で。





揺れる草の緑は限りなく続いていて、終わりなど考えた事もなかった。
吹き抜ける風が悪戯に髪をなぶり、微かな花の香りが鼻腔を刺激する。高く澄んだ空を流れる雲は、始終形を変えながら、誰かに呼ばれるように駈けていく。
雲だけではない。

『廉、廉――』

名前を呼ぶ声がする。
呼ばれるままに足を進め、だが、そこでふと廉は立ち止まった。「廉」この名前で自分を呼ぶ者は草原にはいない筈なのだ。
ざ、と風が耳元で唸った。
呼ぶ声は、一向に止まらない。それどころか、段々と近づいてくる気さえする。
少し低く、力強く、何処か甘やかな響きさえ纏った声は、廉の胸を激しく揺さぶった。

『廉、廉――』

そんな声で呼ばないで欲しいと思った。
呼ばれたら、抗う事が出来なくなるから。
失った物を忘れそうになるから。

「呼ばない、で――!」

廉は己の両耳を塞いで蹲った。




◇◆





「疲れた顔をしているな、何か心配事か?」
「・・・・・・」

絹布に刺繍が施された背もたれに寄りかかりながら鷹揚に問いかける姿は、彼が「統べる者」である事を如実に表している気がして、廉には真っ直ぐ見返す事が出来ない。彷徨った視線を足下に落としながら、否、首を横に振ると隆也は怪訝そうな表情を残しながらも頷いた。

「そうか・・・・・・」

だが、一瞬でその表情を消すと、彼は振り返って傍らに控えていた近待に何事かの合図を与えた。すぐに音もなくその男は引き下がると、やがて布に包まれた奇妙な形の物を持って再び現れた。

「お前は下がっていい」
「・・・・・・?」
「廉、お前に言ったわけではないから」

廉が首を傾げている間に、先程の男は命じられた通り、また静かに姿を消した。そして、その様子に目をやることもなく、隆也の手が包みを縛る紐を解き始める。

「・・・・・・?」

その時になって、廉は漸く僅かな違和感に気がついた。

「ああ・・・・・・どうした?」

物問いたげな表情に目敏く気づいたのだろう、隆也は手を休めると廉の方を見た。だが、相変わらず何も言わず、怯えを滲ませた廉の様子に小さく笑う。

「別に危険な物じゃない。お前の気晴らしになれば良いと思ってな」

言葉と共に紐が引かれて、はらりと床に落ちた。

石の床の上で黒い蛇のようにのたうったのは、粗末な麻でなわれた紐だ。違和感の正体に気づいて、廉は弾かれたように顔を上げる。

「・・・・・・っ!」

「分かったか?」

絹と金糸銀糸で囲まれたこの場所には、ひどく不釣り合いな紐と包みだが、廉には痛い程見覚えがあった。ぱくぱくと動く口元を見て、隆也の眉尻が下がる。

「取り寄せてみたんだ。気に入ってもらえればいいが・・・・・・」

続いた言葉で隆也の膝から、するりと布が滑り落ちて中身が現れた。華奢で長い首に数本の弦を張った、ごくごくありふれた琴が一つ。
紫檀の細工も螺鈿を貼られたわけでもない。ましてや、絹の弦を張られているわけもない。木と皮で作られた簡素な琴。ただ、つま弾けば草と風の音を奏でるそれは、廉の故郷である草原で誰もが親しんだ物だった。

「ほら・・・・・」

遠慮せずに持ってみろ、と突き出されて廉はおずおずと細い手を伸ばした。一見ぞんざいに見える隆也の素振りを、怖いと思わなくなっている事には気づかないままで。

「何か弾けるか?」
「・・・・・・」

問いかけに僅かな躊躇いも見せず、廉は頷いた。
期待はしてなかったのだろう、驚きに見開かれる黒い双眸を、凝と見つめ返しながら、そっと指を動かす。


しろい指先が、細い弦の上を滑るように撫でると、風に揺れる草の音がした。



◇◆



あれから半刻あまり、隆也は何も言わず、黙として廉の奏でる音に耳を傾けている。
奏者の拙さを表すように、曲は時々つまったり奇妙な音程を弾いたりしたが、そんな些細な事は取るに足りないのだろう。
一心に楽器に向かう廉の横顔と、僅かに伏せられた睫毛の作る蒼い影を、主はひたすらに見つめていた。



「・・・・・・」

ふ、と小さな吐息が漏れて、榛色の眸が緩やかに閉じられる。それが曲の終わりの合図だと気づいた隆也は、椅子から腰を上げると一歩踏み出した。琴を膝に置いた廉は、まだ自分で奏でた音の余韻に浸っているのか、何処か焦点の定まらない表情で楽器の表面を撫でている。

「――お前が、そんなに琴が好きだとは知らなかったな」

不思議そうに繊首が傾げられる。珍しく怯えの色を滲ませていない瞳に、隆也の口元も自然と綻んだ。

「廉について、俺は知らない事ばかりだ」
「・・・・・・っ」

薄い唇が何か言葉を紡ぐように動く。咄嗟に、無意味な行為だという事も忘れて、廉の『声』を近くで聞き取ろうと隆也は身を乗り出した。しかし、それは建前で絹よりも柔らかな髪に触れたいと思っただけなのかもしれない。

「廉――」

「・・・・・・!」

間近で自分の名前を呼ぶ声を聞いた途端、惚けたような瞳に光が戻った。横を見て、至近距離で絡む視線に、廉の膝から琴が転げ落ちる。粗末な作りの楽器は、僅かな衝撃でも苦しげな悲鳴を上げた。

「っぁ・・・・・・」

悲しげな音をたてて弦を支えていたコマが割れる。だが、支えを失って無様な程緩んだ糸と、欠けた木片を見て、顔色を変えたのは隆也の方だった。

「・・・・・・すまない。すぐに、すぐに新しい物を取り寄せる」

壊れた楽器を恭しいくらいの手つきで取り上げると、苦い表情で廉に告げる。しかし、珍しく狼狽えた彼の腕に、そっと添えられた物があった。

「廉・・・・・・?」

袂を引かれる気配に隆也が目を向けると、琴を奏でていたのと同じ白い指先が見える。俯き加減の項は常と変わらないが、引き留められたのは初めての事かもしれない。
廉、もう一度名を呼ぶと、柔らかな色の髪が揺れる。だが、どうしたのか?と問いかけても、顔を上げる様子はない。代わりに、鮮やかな色をした絹布にぽつぽつとした水玉が増えるのを見て、ようやく合点がいった。


「泣くな――、明日にでも新しい琴を贈ってやるから」


宥めるように抱き寄せて、濡れた目元に軽く口づけると、隆也は己の言葉を実行する為に歩き出そうとした。が、


「・・・・・・っ!・・・・・・!」


「れ、ん・・・・・・?」


腕を引けばすぐに振り切れてしまうほど頼りない縋り方なのに、隆也は動けなかった。一瞬浮かんで、そんなはずはない、と打ち消した言葉が蘇ってくる。


「――俺の都合の良いように解釈するぞ」


振り返って、両手で小さな顔を包む。微かな震えが伝わってきたが、決して手放す気にはなれなかった。


「廉、廉――」


今まで、何度繰り返しこの名前を呼んだのだろう。潤んだ榛色が自分を見つめ返すのは、隆也にとって、生まれて初めて見る光景のように美しかった。
薄い色の睫毛が伏せられて、密やかな表情に吸い寄せられるように唇を重ねる。濡れた頬を舌で拭うと、くすぐったそうに首を竦めるのが愛おしくて堪らない。


「お前には、かなわないな・・・・・・」


名前を呼びながら、途切れた言葉の合間に口吻る。自分でも嫌になるくらい甘い睦言を綴れば、かき抱く腕に縋る白い指。
柔らかな前髪の隙間から淡色の瞳を覗き込むと――くらりと目眩がした。






◇◆





『廉、廉――』


風が草を揺らすように、繰り返し繰り返し、呼びかける声がする。
温かく優しい声だ。誰よりも廉の事を強く望んでくれる、彼の声だ。

(隆也――)

素足が黒い土で汚れるのも厭わずに、廉は駈けだした。
足下で潰れた草が緑色の匂いを放つ。胸の奥をつきりと刺す痛みに僅かに顔を顰めても、廉の足は止まらなかった。

(隆也――)

始めは、呼ばないで欲しいと願った。失った物を、奪われた故郷を、忘れたくないと思っていたから。

どれだけ飾られても、石で造られた部屋は寒かった。
どんなに豪奢な品物を与えられても、心の通わない贈り物は冷たくて触りたくなかった――あの琴の音を、思い出すまでは。

廉の為にだけ、廉の心に触れる為にだけ隆也が用意した音色が、重い扉を開けて草原の風を呼び込んだのだ。
彼の姿はまだ見えないが、呼び声と共に聞こえてくる楽器の音を追って、廉は草の上を走った。


(隆也――!)






失った物を忘れる事は出来ない、と分かっている。でも、少しの間だけ、湧き起こる想いに身を任せたいと思ったのだ。


この懐かしい、草原の音が聞こえている間だけは。