【蜃気楼ー傾城傾国・2ー】




パラレル・どこかの時代、どこかの国で。





「廉、起きているか?」

柔らかに透けた帳が払われて、そこから覗いた人物に鳶色の瞳が瞬いた。
夜も更け、こんな時間まで彼が現れないという事は、今夜はもう会えないのだ、と想っていたところの不意打ちに細い喉がひゅうと鳴った。

「こんな遅くに悪いが、どうしても見せたい物があったからな」

言外に申し訳なさを滲ませた口調が彼らしくなくて、胸が騒いだ。「大丈夫」と伝えたくて手を伸ばすと、力強い腕は寝台の上から軽々と廉を抱き上げた。
眠くないか、と問われて首を横に振る。

「すっかり寝ていると思ってたんだがな」

意外そうな言葉に、廉はそっと睫を伏せた。口に出来ない寂しさは、隆也に触れられた途端、溶けるように消えてしまった。己の感情の単純さを充分すぎる程分かっていても、伝える勇気だけは相変わらず何処を探しても見つからない。
常通り、無言で俯く白い項を見下ろしながら、隆也が苦く笑ったのにも気づかなかった。



◇◇◇



石を切り出して伸びる床は、おそろしく滑らかだが、ひどく冷たい。それは、美しいのに誰一人寄せ付けない、月白の光を思い起こさせる。
廉の故郷では、ほとんどの家屋が、木や土や、草の匂いのする物だった。
ここには絶えず花を模した香りもするけれど、風に揺れる小さな白い花は一輪も無かった。草原の光景を懐かしいと想う事は無くなっても、素足を乗せるだけで、体温を吸い取るような固い感触はいつまでも慣れる事はないだろう。

「これを履いておけ」

ふいに隆也が着物の袂から布張りの靴を取り出した。綾絹に精緻な刺繍と細かな玉を散りばめた、触れる事も躊躇うような一対だ。これだけで何年も暮らしの糧となる者は、大勢いるに違いない。それを彼は無造作な手つきで廉の前に並べると、熱を失った足を入れるように促した。

「・・・・・・っ」

僅かに身を引いた廉を、隆也は責めなかった。
頭一つ分は高い身体が跪いて、廉の足に触れた。じん、と湧き出た熱が爪先までゆっくりと流れていく。

「風邪をひかれては、俺が困るからな」

言い訳めいた表現は、廉の心情を慮っての物なのだろう。淡々と靴を履かせる彼の肩に触れる寸前で、きつく掌を握りしめる。
触れられる事を、隆也が厭うとは思わない。
だから、これは、きっと我が儘なのだ。

そのまま離れる事が出来なくなりそうで、触れるのが、怖しいだなんて。



◇◇◇



高い城壁には、間隔を遠くしながら灯りが点されている。時折、風の所為で影が奇妙な形に捩れていた。一歩を踏み出して、廉は彼方を見下ろす。
堅牢な壁、その外側は見通す事も出来ない深い闇だ。瞬いた鳶色に映るのがそれだけだと気づいて、廉は愕然とした。
逃げ場など、とうの昔に失っているのだ。
そして、その景色が、己の心塗りつぶそうとする「虞(おそ)れ」の様に感じられた。
近づけば即座に取り込まれそうな、目眩のする、深い、深い漆黒。


「――怖がる事は無い」


だから、隆也から掛けられた声の内容に、廉は動揺する。
どうして彼はこんなにも正確に、自分の心を読み取ってしまうのか。気づかれていないと考えているのは自分だけで、現実は、剥き出しの想いを晒け出している気がして、自然に揺れる身体を押さえられなかった。


「廉――?」


唇が微かに動く。「怖い」音にしたら、そうなっていたかもしれない。


『怖い、――何が?』





その時、突然、大気が震えて、遠く山の端までもが明るくなった。

「・・・・・・始まったぞ」

隆也の腕が廉を抱き寄せる。すると、背中から浸みる温度が、光が、絡みつくような不安を打ち消した。

「見てみろ――」

はっきりとした強い声と共に、一筋、天を目指して駆け上った閃光が舞い散る。
孔雀石の緑。蒼金石の藍。瑪瑙の紅に琥珀の黄色。石榴石、翡翠、紫水晶、石英。雨のように降り注ぐのは銀紗の糸で、その途中暗闇に散り散りに消えていったのは、月長石の欠片のようだった。
仮に声が出たとしても、この時の廉に綴れる言葉はなかっただろう。山を越える風をも震わせながら、次々と大輪の華が打ち上げられる。黒曜の闇を照らし、見上げる瞳に星が落ちてくる。
それは、息を呑む暇もない一時。廉が生まれて始めてみる花火だった。


やがて音が止み、辺りが再び静寂に包まれるまで、紗の領巾を握りしめる廉の指が緩むことはなかった。



「・・・・・・」

感嘆の代わりに、深いため息が小さな唇から零れる。胸の内に滲んだ灯火を消さないように、小さく、細く。
だが、儚い横顔を見つめる隆也の表情は、さして得意げなものではなかった。

「これも、駄目か・・・・・・」

物問いたげな視線に端正な顔が微かに歪んだのと、見覚えのある表情に廉の肩が震えたのはほぼ同時だった。

「廉・・・・・・廉、お前は、」

唐突に伸びてきた手が、夜風で冷えた頬を包む。隆也の台詞が途切れたのは、城壁を吹き抜ける風の所為ではない。
熱い皮膚の下、渦巻く感情は触れた部分から確かに伝わっている。それなのに、どうしてこんなに、もどかしい想いだけが募るのか。

「ふ・・・・・・っ、あ・・・・・・」

用意された物は全て自分の為の物なのに。
自分だけに向けられる視線の意味も、証も、痛いくらいこの躯に刻み込まれているというのに。


――ただ、救いようがないくらい、愚かなのだと思う。


止まらない涙を拭う手の優しさに縋り付きながら、廉は結局、また目蓋を閉じる事しか出来なかった。




仮初めの暗闇の中、あんなにも美しかった花火の光が、蜃気楼のように浮かんでは消えた。