【落花流水。ー傾城傾国・10ー】




パラレル・どこかの時代、どこかの国で。





【廉】

柔らかな風に乗って部屋に飛び込んできた物が、廉の膝の上に舞い落ちた。

「……?」

琴を奏でる手を休め、白い指を伸ばす。ついと拾い上げたのは、ちょうど人差し指の爪と同じくらいの大きさをした、純白の花弁だった。廉はその一片を、脇に広げた絹布の上に、そっと置く。鳶色の視線が微かに揺れながら、染み一つ無い花びらと己の指先を見比べた。
労働から切り離された指先は、滑らかだがよく見れば薄らと細かな傷跡が残っている。それは拭いようもない廉の過去の記憶だ。しかし、いずれその痕が無くなってしまうのも、時間の問題だった。



『廉、廉――痛くは無いか?』

醜い指先を恥ずかしいと思った事は無かった。だが、隆也は――廉の王は――折に触れては遠国から取り寄せたという軟膏を自らの手で廉の指先に塗り込んでいた。淡桃の軟膏は見た色そのままに淡い花の香りが付けられていて。隆也の硬い指によって擦り込まれると、体温に混じった香りは一際強く漂うようにも感じられた。

『直に、良くなるからな…』
『………ぁ』

傷は綺麗に消えるから安心しろ。との言葉に、廉は頭を振った。痛ましげな黒い視線を否定したかったからだ。隆也が向けてくれる想いは、廉に喜びだけではなく、細い針の刺さるような悲しみも感じさせる。下働きとしてこの宮に来た時でも、廉は己の境遇を卑下した事など無かったのに。

(で、も――)

でも、今はどうなのだろう?
隆也の傍にいる事を望まれて、絹や金銀玉石に飾られて、ただ琴を爪弾くだけの生活は、生温い澱みの中で、少しずつ息が詰まっていくような気さえする。もしも、廉が言葉を口にすることが出来て――本当に『もしも』だ――そう訴えたのならば、隆也はなんと答えるのだろう。

(隆也………)

黒い双眸を思い浮かべ、廉は唇だけでその名を綴った。それでも自分がこの場所に止まっていられるのは、彼の存在があるからなのだ。この想いが何と呼ばれているのかも、とうに気付いている。

「………」

決して届かない声の代わりに、廉は琴を手に取った。奏でる音色が彼の人に想いを伝えてくれることを、心の中で祈りながら。






◇◆



【隆也】

「――杏の花のようだな。もうそんな時期になったのか」

案外と博識な面を披露しながら、隆也は絹布の上の花弁をつまみ上げた。忙しい仕事にも一段落がついたのか、何時になく軽い口調が珍しい。
庭園の何処に植えられているかは知らないが、風によって運ばれてきた一片。それを隆也の愛人は、この上もなく貴重な玉のように絹で包んでいた。

「廉?」
「………」

細い首を微かに傾げ、淡い色の睫毛が瞬いている。
丸い明るい色をした眸を見ていると、隆也の中で、ふとした悪戯心が湧き起こった。
眼前まで持ち上げていた花弁を鼻先に寄せる。香りはしないな。と呟くと、視界の端で廉が訝しげに眉を寄せるのが分かった。次に、隆也は滲みそうになる笑いを押し隠しながら、指先を口元へと運ぶ。咄嗟に何が起こったのか、廉には理解出来なかったのかも知れない。
微かに唇が動いたように見えた次の瞬間、隆也が口を開くと、――そこには何も無かった。

「………っ!!……ぁ!!」

途端に、痩身が跳ね上がる。

「っ、おい。廉?こら、そんなに慌てるなって!」

隆也の口元に細い指が撫でる、思わず、くすぐったいと笑う王に愛人は柳眉を逆立てた。
だが、日の光に透けて琥珀のような色をした髪が揺れて、鼻先を擽られた隆也は笑いを収めるどころではない。笑いながら痩身を抱えると

「ははっ!」
「………っ!?」

勢いよく寝台の上に倒れ込んだ。見開かれた淡色の双眸に自分の顔が映っているのを確認してから、抱きしめていた腕を解いてやる。勢いに任せたように見せて、その実きちんと注意は払っていたから、廉も軽い衝撃を感じこそすれ、痛みなど毛ほども無かっただろう。

「痛くなかったか?」

だから、これは単なる確認なのだ。目を細めながら自分の腹の上に乗った廉の髪を梳く。柔らかな髪は、指に絡まるようでいてするりと滑り落ちる。だが、その感触に名残惜しさを覚えながらも、隆也は身体を起こした。

「廉、見てろよ……」

些か仰々しい動作で奇妙な軌道を描く主人の指先を、命じられた通り鳶色の双眸が凝と追った。




「……?」

細い首が隆也の動きに合わせて揺れる。すると、一瞬握り込んでから、ついと伸ばされた二本の指の先に

「……ぁ!」

――先ほど消えてしまった筈の花弁が挟まっていた。瞬きする程の時間も無かった筈なのに、どうして。と目で訴えてくる廉に、得意気な笑みが零れる。その表情はまるで悪戯盛りの少年のようだった。(だが、それを見た廉の耳の端が微かに赤く染まったのを隆也は気付かない。)

「どうだ?少しは面白かったか?」
「………」

しかし、小さく頷いたものの、どうやら釈然としないらしい。その証拠に、掌に戻ってきた花弁を見つめている廉の表情は何処か浮かなかった。なかなか自分に向けられない視線に痺れを切らして隆也が細い顎を掴むと、漸くゆっくりとした瞬きと共に、淡色の眸に影が映る。

「――何か、心を痛めているような事があるのか?」
「………」
「――本当に?」

廉は弱々しい動きで首を横に振った。大丈夫、心配しないで。再び俯いてしまった横顔から、隆也が読み取れる事は本当に僅かだ。いつの間にか部屋に忍び込んだ風が、無力さを嘲笑うようにするりと脇を抜けていった。

「廉……」

掴んだ手の下で、薄い肩が震えている。しろい項を眺めながら、隆也は己の胸の奥に不安にも似た澱が降り積もっていくのを静かに感じていた。




◇◆


【廉】


広げた布の上で、花びらが水気を失って奇妙に捩くれた姿を晒していた。杏の花だ、と隆也が教えてくれた時は、まだ柔らかな白さを見せてくれていたのに。褐色の染みが所々に浮かんだ姿には、少し前の面影も無かった。

(さっきまで、あんなに、綺麗だった、のに……)

ふ、と漏れた溜め息に混じる寂しさは、あるかなきかの儚さだったのに、あっさりと気付かれてしまう。隆也の黒い視線に促されて顔を上げると、彼は口の端を軽く歪めた。
笑っている、というには苦味が勝った笑みに廉は息が詰まるような気がした。

「その花は、もう駄目になってしまったな」
「………」
「――だが、花は散るものだろう。それが定めなのだし、第一散らなければ実がつかないからな」

あれは結構美味いぞ。熟したらお前の為に庭師に持ってこさせようか。他愛ない会話に相応しく、終わりの方は少しばかり戯けた調子で、だが、呟いた時の隆也の眸の色を廉が忘れる事は出来なかった。

(隆也……なんで…)

隆也にこんな顔をさせているのが、一枚の花弁などで無い事は分かり切っている。
自分よりも余程不安げな顔をしている主人に、廉はそっと手を伸ばした。広い肩に縋るように顔を寄せると、嗅ぎなれた香りと染み込んでくる体温。尋ねることが出来ないもどかしさは、そのまま寄り添うだけの想いに変わっていく。

「廉……?」

不思議そうな響きに瞼を伏せると、廉は細い腕に力を込めた。


(そんな、寂しそうな顔はしない、で……)


こんな近くに居るのに、自分達はどうして分かり合えないのだろう。過ぎた日に、『廉がいれば、それだけで充分だ』という睦言は嘘だったのか。そう責めたら隆也はどんな顔を見せるのだろう。怒るのか、それとも今のように寂しげな笑みを見せるのかもしれない。願わくば、前者であれば良いと廉は思う。
怒りでも苦しみでも、吐き出してくれれば良いのに。何かを望む資格など、自分には無いのかもしれないけれど。それでも、こんなささやかな願いくらいなら、持っていても許されるだろうか。


(隆也――)


隆也にこの想いを、感じ取って欲しい。
いつか、の話ではないのだ。廉はもう隆也の気持ちを信じ始めているのだから。