しあわせのかたち


 





『幸せの形を描いて下さい』

いつかのテレビ番組で、黄色い声をしたキャスターがそんな事を言っていた。収録会場に集まった人々には紙が
配られて、めいめいが自分なりの『シアワセノカタチ』を描いている。

そういえば、あの時の自分はどんな形を描いたのだろう。
父親にねだって紙とクレヨンを用意してもらって、子供特有の無邪気さと不器用さで描いた形。

あれは―――






目覚めると、カーテンの隙間からしろい月の光がリネンの上に落ちていた。光りを辿るように指を滑らせると、薄い布の下で蠢く気配がする。思わず、あ、と声を漏らしてしまった。だが、起こしてしまったか、と冷や汗をかいものの、彼の口元からは規則的な寝息が流れたままだ
―――知らず安堵の息が漏れる。


「よ、かった・・・」


微かに軋む音をたてながら、三橋は寝台から足を下ろした。素足に触れる、ひやりとした床の感触。二人でくるまっていた布団はさほど厚みのあるものではなかったけれど、二人分の体温があったのだから、外気に比べれば遙かに暖かい。
その証拠のように、外に出た身体は冷たい空気に包まれて、いつも以上に白く見えた。窓にひたりと手を当てると、静まりかえった夜の景色が透明なガラス板に映りこむ。


「まだ、夜だ・・・」


営みを知らせる灯りは所々に見えるものの、景色の大半はしん、とした状態を保っていた。振り返れば朧気な闇の中、阿部の後ろ姿が見える。寝返りをうった所為か上掛けがずれて、くっきりと浮かぶ肩胛骨とその下に藍色の影が落ちていた。


『肩は絶対に冷やすなよ』


ふいに聞き慣れた声が耳元に蘇る。
少し低くて、彼の性格から考えれば、些か不似合いな甘さが潜んだ声。いや、不似合いなどではないのかもしれない。眠りに落ちる寸前まで、自分に触れていた指先、唇、囁かれた言葉は、どれも極上の蜜にも似た甘さを孕んでいる。
―――彼の常しか知らない仲間達が知ったら、さぞかし驚くだろう。


だが、それは全て自分の為の物なのだ。


その事に奇妙な誇らしさを覚えながら、三橋は再び寝台へと近づいた。月明かりに照らされた阿部の背中は、ほんの少し自分より厚いが、成長途中の脆さをも含んでいる。それでも折に触れ体重の管理に文句を言われる己に比べれば、遙かに順調な成長曲線を辿っているのだろう。
自分をかき抱いてくれる腕の硬さと熱を思い出せば、身の内に沈みかけていた火が、再び灯るような気がした。


「阿部くん・・・肩、冷えちゃう、よ・・・」


起こすつもりは毛頭無いので、小声で。
でも、本当にそう思っているのならば、黙って行動すれば良いのだから、やはり少し寂しいのかもしれない。
背中を向けられたままなのも、無意識の所作ゆえ何処かやるせない。


「なおす、ね・・・」


そろそろと手を伸ばして、上掛けの端を摘む。細心の注意を払って薄い生地をゆっくりと引き上げていると―――ふいに、しろい布が膨れあがった。


「ふええっ!」
「こら、でかい声出すな!」


ひらめいた布の間から突き出された手に掴まれて、身体が引き寄せられる。思わずあげた間抜けな声を覆い隠すように、頭からすっぽりくるまれた。


「あ、あ、うあ・・・べくん?」


驚きすぎてまともに声が出せない。う、だの、あ、だの繰り返し呻いていると、ふっと笑う気配を感じた。


「こんな時間に外なんか見て、何考えてた?」
「え・・・、お、起きてた、の!?」


お前がベッドから降りた時、もう目が覚めてたと言われれば、何の為の努力だったかと、報われなさがそれなりに侘びしい。起きてたのなら、声を掛けてくれれば良かったのに。頬を膨らますと、抱き込む腕の力が強くなった。
背中を覆う暖かさに、自然と目が細くなる。


「いや、さ。なんか肌寒くて目を開けたら、お前が外の景色を眺めているのが見えて。何を考えてるんだろうな・・・」


と、思ってた。耳元で囁かれる声に首筋が震えた。
―――彼の声は無駄に甘いのだ。
怒鳴られたり、呆れられたりするのには大分慣れたけど、この甘さだけは、いつまでも慣れる事が出来ない。


「え・・・と・・・」
「何?」
「し、幸せのかた、ち・・・考えて、て」
「はぁ?シアワセノカタチ?」


こくりと頷くと、なんだ、それ。と気の抜けたような返事が戻ってきた。腕の力がほんの少し弛む。その隙にくるりと身体の向きを入れ替えると、黒く深い双眸とかち合った。


「小さい時、テレビでやってた、んだ」


テレビ?ああ、何かの番組の企画か?回転の速い捕手の頭にかかっては、自分の拙い言葉もあっという間に翻訳される。もっとも、これは二人だけの時に限定されてしまうのだが。
(日常生活におおいても、これ位に意志の疎通だ出来ればよいのにと思わずにはいられない―――原因は不明だがそれは今の所無理のようだ。)


「紙に描くんだ・・・」
「『幸せ』を?そんなもの、描けるようなもんじゃないだろ?」
「うん。だから、みんな、言葉からイメージする物、を描いてた気がする」


それは、家族であったり、友人であったり、思い出の品であったり。人それぞれ描くものが異なっていても、帰結するイメージは一つ―――『幸せ』


「じゃあぁ、お前は何を描いたんだ?」
「へ・・・?お、オレは・・・」


問われて記憶の奥を探ってみたところで、幼い頃の思い出はひどく曖昧な色彩しか残していなかった。両親や幼馴染み、あるいは何を描いたのだろう。滅多にない皺を眉間に寄せて考えていると、


「お前の事だからさ―――」


途中まで言いかけて口を噤む恋人に、三橋は小さい頭を少し傾げた。


「いや・・・」
「阿部くん、な、んだ?」


珍しく歯切れの悪い口調が、笑いを堪えているのだと気づいていたら、重ねて尋ねるような失策はおかさなかったと思う。従って、伺うような視線を送った瞬間目に入ったのは、吹き出す寸前の人の悪い顔だった。


「くくっ・・・いや、さ。お前の事だから・・・くっ」
「だから、何が言いたいんだ、よ!」
「おい、もうちょっと静かに喋れ!」


向き合った肩口に顔を押しつけられて、三橋の口からくぐもった悲鳴があがる。ばたばたと暴れる身体を簡単に抑えられてしまうのは、力の差だけではない。宥めるように優しく髪を梳く骨張った指に、うっとりと目を細めると、また小さく笑う声が聞こえた。


「・・・何?」
「怒ってんの?」
「・・・怒ってない、よ」
「本当に?」
「・・・本当、だ・・・と、思う」


自信なさげに付け加えた返事に、抱きしめる腕が揺れた。ああ、また笑われた。と気落ちする間もなく、耳元に問い質したかった答えが返ってくる。


「―――お前の事だから、野球のボールでも描いたのかと思ってた」
「ぼ、ボール・・・」


そういう風に思われてたんだ。と零すと、頭をぐりりと撫でられた。乱暴な手つきだが、不思議と少しも嫌だとは感じない。痛さよりも暖かさの勝るそれに顔をすり寄せると、目の前の身体が僅かに強張る気配があって、思わず目を見張った。


「ど、どうした、んだ?阿部くん・・・」


自分は何か彼の気に障る事でもしたのだろうか。生来の臆病者の気質が顔を出す。だが、おどおどと見上げれば、そこには予想外の熱を含んだ視線が待っていた。


「ああ、畜生・・・。明日、朝練さえなければ・・・」


阿部の口から漏れた言葉とは俄に信じがたい台詞に、唇が中途半端に開いたまま固まってしまう。


「え・・・あ・・・あの」


理解し難い状況に、ただでさえ早くない頭の回転がついていけるはずもなく。気づいた時は、自分より体温の高い阿部の唇を重ねられていた。


「ふっ・・・くん、う・・・っ」


角度を変えて何度も重ねられるそれに、息つく暇もない。酸素を求めて開いた隙間から、熱く湿った感触が滑り込んできて、舌を強く絡められる。耳に入る水音で、より深いキスに移行した事を理解した頃には、薄い体躯からは蕩けるように力が抜けていた。


「あ、べくん・・・?」


舌足らずの口調で行動の真意を尋ねようとすると、鼻先にちゅ、と軽い口吻が降らされて淡色の睫毛が瞬く。


「わり。遅いから・・・もう寝なきゃ駄目だよな」
「うん・・・」


明日、明日。と己に言い聞かせるように呟く阿部の顔は、夜目には、はっきりと分からないが赤くなっているのかもしれない。その所為か、さっきまでまっすぐに向けられていた黒い双眸が、今はあらぬ方向を彷徨っている。


「おやすみ、三橋」


「――おやすみ、なさい」


言葉にした途端、睡魔は驚くような早さで忍び寄ってきたらしい。
そう経たないうちに、先程と同じ規則的な呼吸音が三橋の耳に届くようになった。息を潜めて、こっそりと伺うと、そこには何時になく幼い表情の阿部の寝顔が見える。
その穏やかな表情を見つめていると、ふいに胸の奥からこみ上げてくる物があった。


―――オレの『シアワセノカタチ』は、ここにある、よ。


伸ばした手を、自分を抱きしめている背中に回す。
首の後ろ、なだらかな筋肉のついた肩を滑り、くっきりと浮かび上がった肩胛骨に指を這わす―――これが、きっと自分の幸せの形。


「おやすみなさい・・・」


もう一度呟くと、睡魔は三橋の方にも近づいてきたようだ。
ゆっくりと目蓋を閉じて、温かい微睡みの中をたゆたっていく。




明日の朝目覚めたら、彼に伝えようと思う。
『幸せの形』は、今、自分の腕の中にある全てなのだと。