【Early summer flowers】 2007.ミハ誕



少し項垂れた様に咲く、その白い花を見た時、思い浮かんだのは何故か三橋の事だった。



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【通り道・阿部】

夏の入り口が見えているとはいえ、早朝の五月はまだ少し肌寒い。薄い生地を通してくる冷たい大気に、肩がふるりと震えた。それでも日の出は早くなったから、冬の練習の様に暗中、自転車を飛ばす必要がないのは幸いだ。

「・・・・・・あ」
白い物が視界の端に止まって、阿部は自転車を止めた。いつもと同じ道を、いつもと同じ様に通っていたのに、今日に限って足を止める気になったのはどうしてだろう。

「花か・・・?」

ふわりと蝶のよう、に揺れて見えたのは、ただの白い花だったらしい。頭の中がほぼ野球、いや、より正確に言うならば「投手」で占められている阿部には、花の名前なんて情緒のある物はインプットされていない。花屋の店先に並んでいる花だって、色が違うって事くらいで後は十把一絡げなのだ。

何の気無しに指先を伸ばすと、花は嫌がるかのように震えて顔を背けた。
―――まるで彼のように。

「ちっきしょ・・・」
なんかつまんねぇ事思い出しちまった・・・。と瞬間、阿部の脳裏に浮かんだのは俯いて涙を零す昨日の記憶。

今日がなんの日だか判っていたのに、自分は何故あんな事をしてしまったのだろう。出来うる事なら昨日の俺を殴りつけてやりたいけれど、そんな事をしたって何の解決にもならなくて。

「どうしろって、言うんだよ・・・。なぁ?」
独り言に、微かな恨めしさが滲むのくらい許して欲しい。僅かな時間だったが、ぼんやりと花を眺めていた阿部は、ふとある事を思いついた。
「・・・・・・」
まだこの時間なので通りに人影は殆ど見えないが、きょろきょろと辺りを見回して。心の中で持ち主に詫びを入れながら、白い花の茎に手をかける。

―――一本だけなんで、すんません!

手折った一輪を、些か乱雑な手つきでスポーツバッグに詰め込むと。阿部はペダルを踏む足に再び力を込めた。



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【朝練・阿部+栄口】


西浦高校野球部の朝は早い。練習量だけなら県内どこの強豪と比較されても、負けない自信もある。

「あー、阿部おはよう」
部室のドアを開けると、ユニフォームに着替えている最中の栄口が声をかけてきた。
「ああ」
「なんだよ、今日は珍しいよな。阿部が一番じゃないなんて。何かあったの?」
「いや・・・、別に」
少し寄り道していただけだ。と答えると、いつも穏やかな表情を浮かべている眉根が微かに寄せられた。

―――阿部が、寄り道・・・?

阿部の生真面目さを良く知っているだけに、なんだか釈然としない物が栄口にはあるらしい。それでも、まぁ、いいや。と気を取り直して彼は着替えを進めたのは、ちょっぴりだけ、面倒くさい事に巻き込まれたくなかったからだ。阿部がらしくない事をするなんて、大概の場合彼の投手が原因だろう。そういえば、なんだか常に輪をかけて愛想が無い気さえする。

触らぬ神に祟り無し。触らぬ阿部に被害無し。呪文の様に心の中で呟いて(触らなくても害を被っている花井は、幸いな事に今日はもうグラ整に出ている)栄口の着替えは無事に終了した。



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【朝練・田島+三橋+阿部(ちょぴり+水谷)】



バタンと賑やかな音を立てて部室のドアが開く。
「おっはよー!」
「おはよう、田島」
勢いよく飛び込んできた四番と入れ違いに、栄口はグランドに向かった。その背中を、たぶん何の気無しに眺めていた阿部に、唐突に田島の指が突きつけられる。

「おう!あ、なんだ阿部!」

「あぁん?」

『人を指で指していけません。』

面倒見が良く良識派の花井が、この場にいたらそれ位の提言はしてくれたかもしれないが。生憎、今この場にいるのは、面倒見が悪く(ただし一部限定ですばらしく良い)、しかも部内きってのタカ派を自負する副主将だ。

「何朝っぱらから、怖い顔してんだよ!」
「・・・・・・」
「・・・・・・た、たじま」
無言になる阿部。その近くで、うっ、と息を呑むような音が聞こえた。いつもながら運悪くこの場に居合わせた水谷は、ひりつくような緊張感から逃れるため、ロッカーの中に顔を突っ込む様に着替えている。しかしこんな時、不機嫌のやり場を無くして苛つく阿部にも田島は全く頓着する事は無い。

さすが天然。
さすが田島様。
我らが4番に敵は無い。

「だって、今日は大事な日じゃんかよ!」
なんで、阿部はそんな顔してんだよ!と、ふんぞり返って言われても今だけは返す言葉も出なかった。
「・・・・・・うるせぇ」
―――そんな事、言われなくても判ってる。
短く言い放ったきり再び黙り込んだ阿部は驚くような早さで着替えると、入り口付近で仁王立ちになる田島を押しのけて外に出ようとした
途端に、ばふんっと、柔らかい感触が胸に当たる。どうやら田島の影になっていたが、後ろにもう一人いたらしい。

「わあっ・・・、と、ご、ごめんなさい・・・」
「あ、・・・お、おう」

明るい色の髪が頼りなげに揺れていた。彼が目線を合わせられないのは、何も今日に始まった事ではないけれど、いつも以上に不安気な瞳の原因は、誰よりも阿部自身が良く判っている。

―――今日は、三橋の大切な日なのに。

田島の台詞がリフレインする。そんな事は、誰に言われなくても忘れるはずはない。

「あ、あの・・・あ、べくん」
「・・・あ、ああ」
「お、オレ・・・」
「三橋!」
「は、ははは、はい!」

上手く伝えられない感情を、強い言葉でごまかしてしまう。自己嫌悪に阿部の口の端が微かに歪む、その表情の変化を目敏く見つけた三橋は、何か言いたげに口を開いたがすぐに下を向いてしまった。握りしめた手が、力を込めすぎて白くなっているのが見える。

―――そんなに力入れんなよ。手に傷がつくだろ!

いつもだったら即行怒鳴りつけているはずなのに、出来なかったのは―――怖かったからだ。これ以上、泣かせるのも怯えさせるのも怖くて。俯いた後頭部に無意識に触れそうになっていた手も、寸前で距離を縮める事が出来なくなる

「さっさと着替えて出てこいよ!今日はスライダーの練習すっからな」
「・・・う、う、うん」

努めて冷静を装った声で、三橋の肩を軽く叩いた。
ばっ、と持ち上げられた薄茶の瞳が探る様に阿部を見て、その奥で揺れる不安を必死に押し殺そうとしている。じんわりと潤みかけた目元を見ていられなくて、阿部は踵を返してグランドに向かった。





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【放課後・阿部+三橋】



くたくたになった身体におにぎりと麦茶を流し込んで、簡単な筋トレとストレッチでダウンをしたら今日の練習はお終いだ。
いつもより若干短い練習時間。この後の予定も、本当なら後は実行に移すだけだったのに。
溜め息を噛み殺して様子を伺うと、三橋の手つきはいつも以上におぼつかなくボタンの上を彷徨っている。
それにさっきから、ちらちらと自分に振られる視線に気づかないふりもしていたが。阿部の短い我慢の尻尾も、実は限界の極みに達していた。

「お前ら!早く帰れ!!」

とたんに蜘蛛の子を散らすように、三橋を除く全員がわっと出口に殺到する。どいつもこいつも、とっくに帰れる準備できてたのか、と判れば眉間の皺もより一層深くなるというものだ。
(一番最後に部室を出た田島が、なんだか好奇心丸出しの顔でこっちを振り返ろうとして誰かに強引に引き摺られていったが、あれはきっと花井の手だと推測される。)

喧噪が去って二人きりになると、驚くほど静かな空間がそこにはあった。

「・・・あ、みんな・・・帰っちゃた・・・ね」
「・・・・・・おう」
「お、オレ、も早く、き、着替えるから!」

もたもたとした指先でボタンが滑る。相変わらずの空回りを始めた三橋に、阿部はぽつりと呟いた。


「お前は、いいよ」
「え・・・、あ」

どうしよう、どうしよう、どうしよう。と顔にかいてある。眉尻の下がった、今にも泣きそうな顔は見慣れた物だけど、今回に限っては自分に非がある自覚があっただけに胸が痛む。

「わりぃ、昨日は俺が悪かったよ・・・、言い過ぎた。」

きちんと向き合ってしまえば、思ったよりも素直に謝罪の言葉が口を出る。ああ、こんな簡単な事だったら、朝練の時に謝ってしまえば良かったのに。いや、朝なんて言わず昨日のうちに伝えておけば、こんなぎりぎりまで三橋の事を不安がらせないで済んだのに。

「え、あ・・・う。そんな事、な、ないよ!」
「いや、俺が悪い。・・・頼むから、そういう事にしておいてくれよ。そうじゃなかったら、オレは自分を許せねぇ。」
「う・・・うう」
全然納得がいかない様子ながらも、三橋はこくりと頷いた。阿部の謝罪を受け入れないなんて、三橋にとっては逆立ちしたって無理だけど。素直に受け入れるのは、それはそれで難しいらしい。
とりあえずの和解が決定したところで、これ以上話を長引かせまいと阿部は次なる行動に移る事にした。
「後、これ。たいしたモンじゃねぇけど」
「え・・・」
スポーツバッグの中から取り出された包みは、見慣れた野球ブランドの紙袋。丸く見開かれた瞳に見つめられて、照れた様にがりりと頭を掻くと、阿部はプレゼントを手渡した。
「ほら。」
「あ、開けて良いの?」
「お前のモンだから、遠慮すんなよ」
プレゼントだ・・・。と、嬉しそうに呟いた唇が、もっと嬉しそうに綻ぶのを見たくて。ちょっとだけせかしてしまうのは、この際大目に見て欲しい。

「う、う・・・ん」
結ばれた紐に手をかける、その拍子に包みの隙間からぽとりと落ちる白い物。

「あ、れ?」
「え・・・、うっ、あ!待て!三橋!!」

床に落ちたのは、すっかり萎れた白い花だった。反射的にそれに手を伸ばした三橋を、焦った声が引き留める。

「これ・・・?」
「そ、それはなんでもねぇよ!」
こっち寄越せ!と突き出された手を三橋は不思議そうに見つめると。にっこりと微笑んだ。

「これも、プレゼントなんだよね?」

言われた途端、かあっ、と耳元まで赤くなるのか判った。確かに、そのつもりで用意した・・・んだけど。よくよく考えれば、こっ恥ずかしいことこの上ない。

―――なんで、そんなしょぼいモンで嬉しそうな顔をするんだよ。そこら辺に生えてた、ただの花なんだぜ。しかもそんなに萎れて、もう水に入れたってきっと駄目だろう。何の役にも立ちそうもないのに、なんでそんなに―――

「嬉しい・・・よ」
阿部くんのくれる物だったら、きっとなんでもオレは嬉しいと思う。と言われて膝の力がかくりと抜けそうになった。その状態に、更に追い打ちをかけるようなふにゃりとした笑顔。
「で、でも、お、オレ、花なんてもらったの・・・初めてか、も」
「・・・・・・そりゃ」
―――そうだろうよ・・・。普通の男子高校生が、どの面下げてチームメイト(しかも男)に花なんか贈るもんか!
口から飛び出す寸前の言葉を寸での所で飲み込んだ。せっかくあんな顔して喜んでくれているのに、水を差す必要はないだろう。それ位判断出来る余裕も、阿部にも漸く戻ってきた。

「ありがとう・・・、阿部くん」


たった一言で、今日一日ぐるぐると思い悩んでいた事が全部どうでも良くなってしまう。ひょとしたら、三橋よりも単純な自分に呆れながら、ああ、でもこれだけは言わなくちゃいけないと肝心な事を思い出した。
紙袋の中のプレゼントよりも、萎れた花よりも、これが一番三橋を笑顔に出来るはずだから。




「三橋、誕生日おめでとう」

ぽろりと零れた涙を拭うために、柔らかな頬に触れる。今日初めて触れた頬は、信じられない位に気持ちよかった。

「あ、べくん・・・」
ぽかんと開けられた口は、ひどく間抜けだけど、自分にとっては堪らないくらい可愛く見える。思わず弛みそうになる顔を叱咤激励で引き締めて。

向けられたとびきりの笑顔を閉じ込めるように、そっとキスをした。





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ゲンミツに三橋が乙女。阿部がヘタレ。
時間切れで詰め込めなかった昨日の話は後日にでも。
何はともあれ、happy birthday!三橋!!