オータム・センチメンタル


 





ふと目が覚めると、枕元の時計はまだ真夜中の時刻を指していた。
暗がりの中で目を凝らすと、カーテンの隙間から淡い光が差し込んで部屋の中に細く白い道を形作っている。その朧気な風景を眺めていると、ぱたぱたと微かな音が聞こえてきた。

「あ、雨だ・・・」

窓を叩く小さな音は、夜半から降りだした雨なのだろう。小雨くらいならいい、酷くなれば練習にも障るから止んで欲しい。そんな事を考えながら、三橋は再び微睡みの中に落ちていった。



□ T □





起きてみれば、夜中の雨が嘘のように晴れ渡った朝だ。夏が終わり冬が始まるまでの短い季節、空の青さは抜けるように高く澄んでいる。少しひやりとした空気が心地よくて、自転車のペダルを踏む足も軽快なリズムを刻み、両脇の景色が飛ぶように流れてゆく。

「三橋、はよ!」
「お、はよ!栄口くん」

角を曲がった所で、見慣れた仲間に声をかけられる。ふわりとした笑顔につられて、三橋の顔にも自然と笑顔が浮かぶ。調子良さそうだな。雨止んで良かった。これで練習出来るよ。今朝のメニューはすごいらしいぜ。他愛のない会話を交わしながらグランドに向かう道すがら、三橋は一度だけ振り返った。
出勤途中の会社員が、新聞を取りに出たらしい家庭の主婦が、犬を連れた老人が、誰もが当たり前の朝の風景の中で動いている。少しの間その景色を眺めると、三橋はまた前を向いて走り出した。





栄口の言っていた通り、今朝の練習は昨日までとは変わった構成になっていた。そうはいっても、瞑想やストレッチを行うのはいつもと変わらない。今日は田島と組んでストレッチをして、瞑想は阿部と泉の間だった。瞑想が終わり、ピッチに向かう為にグラブを取りに行くと後ろから阿部に声をかけられた。

「三橋、今朝は投球数絞っていくかんな」
「あ、え、で、でもオレ、肩の調子悪くない、よ」

投球数を減らすイコール体調が悪いと思われていると勘違いした三橋は、視線をあやふやな方向に散らしながらも阿部の言葉に反論した。
まともに相手の目を見て抗議する事が苦手な三橋にしては、精一杯の努力なのだろう。
だが、阿部は大きく頭を振ってその抗議を一蹴すると、三橋の斜めにずれていた帽子を直しながら、減らす代わりに全力投球の数増やすんだよ。と付け加えた。それを聞いた途端、鳶色の瞳に力が戻る。


「オレ、頑張って投げるよ!」


と、破顔する三橋の後ろには、雲一つ浮かんでいない抜けるように青い空。

阿部の目が眩しげに見つめていた事には、最後まで気づかないままだった。




□□□




東の空が白み始めるのと同時に、夜半から降り続いていた雨があがった。元々そんなに強い雨では無かったから、太陽が昇るに連れて地表はみるみるうちに乾き、街路樹の葉の上に光る滴が唯一の名残だ。
これくらいがちょうどいい。マウンドも程よく湿って、空気も清々しい。頬に触れる大気に含まれる僅かな冷たさと、高く澄んだ空に、阿部は秋の訪れを感じ始めていた。





白球がミットに収まる感触は独特だ。手のひらから腕までに抜ける衝撃と、じんと痺れた指先は一度味わうと忘れる事が出来ない程強烈だ。三橋の場合はそれに加えて、正確無比なコントロールがある。自分の指示した所に吸い込まれるように放物線を描くのを見た瞬間、身体を貫いたのは感動というには生易しい。
夢にまでみた物が自分の手の届く場所にあるのだ、阿部が掴んだ手を離すまいと思ったのは当然の事だろう。

そして、阿部から伸ばされた手を、三橋は握り返した。

それから―――季節は慌ただしく変化している。




□ U □





 黒板には数式が並び、教師によって指された生徒が回答を書き込んでいた。

『おい、阿部』

小声で名前を呼ばれたが、阿部は応じる様子がない。仕方なく彼はもう一度名前を呼んで、同時に消しゴムの欠片を飛ばしてみると、阿部は漸く振り返る。

『なんだよ、花井』
『次の次の問題。お前当てられるぞ』
『マジで?』
『出席番号できてるから、確実』

軽く舌打ちをすると、阿部は教科書をめくる。目的のページに辿り着いたのと、教師が阿部を指名したのは、ほぼ同時だった。

黒板に回答を書き込んで席に戻ると、花井の視線が追ってくる。なんだよ、という風に顎をしゃくってみせると、教科書の下から僅かにはみ出しているノートを指さされた。

『そ・れ・な・に?』

教師に気づかれぬように、口の形だけで質問が来る。

『け・い・こ・う・と』

坊主頭の首が傾げられる。

『た・い・さ・く』

阿部は先程の花井と同じように、無音の答えを返す。“傾向と対策“まるで某参考書の様なタイトルだが、偽りはない。もっとも内容は、阿部の大切な投手に関するモノばかりだが。
そして間もなく終業の鐘が鳴り、生徒達はざわめきながら席を立つ。




「お前、授業中もそんな事ばっかしてんのな」

呆れるというよりも、むしろ関心した口調で花井は呟いた。そんなささやかな賞賛の言葉にも、阿部は照れる事なく当然の面持ちを崩さない。

「俺達が、勝つためだから当然だろ」

確かに夏の大会は、初めてとしては素晴らしい成績だったかもしれないが、部員達の夢は手の中をすり抜けていった。あの時の喪失感は味わった者にしか判らない。

「俺達が・・・な」

だが何処か引っかかりのある物言いをする主将に、阿部は軽く眉を顰める。その事に気づいた花井は、少しだけ頬を緩めて口を開いた。

「俺達っていうよりも、三橋が、だろ」
「なっ!」

からかわれている、と判るものの、阿部の顔は赤くなるのを止められない。冗談だよ、続けられても阿部は憮然とした表情のまま席を立った。



「―――阿部!」

だが、名前を呼ばれてその先を見た途端、阿部の顔に微かな変化が浮かんだ。もう一人の級友、水谷の影に隠れるように佇む少年。


「三橋っ」


花井が呆れたように笑っている。どうせ構わない、自分の頭の中は確かに三橋の事でいっぱいなのだから。




三橋の肩越しの窓辺に、黄色く染まった銀杏の葉がくるくると舞い落ちるのが見えていた。