cantabile e pregare


 




歌うように、そして、
祈るように 




2人きりの時間というものは意外と少ないものだ。学生といえば無尽蔵にある時間をもてあましているようなイメージもあるが、実際のところ三橋にしてみれば。そんなはずは無いと断言出来る。
早朝から始まる朝練と、日が落ちても続けられる午後練と、家に帰れば夕飯を食べて寝るのに精一杯で何処かでゆっくり寄り道をしていられるような余裕も無い。それは二人が出会ってから季節を一巡りした今でも変わらない。
何故ならば「そんな時間があるのなら、1分でも1秒でも多く睡眠に回せ。」というのが絶対無二の恋人からの命令だから三橋にすれば多少の不満は飲み込んでも従う他が無かった。
今日も今日とて「とっとと家に帰ってメシ喰って寝ろ」との厳命が下されたのだが、名残惜しい気持ちに引きずられて着替える手は遅々と進まない。その視線の先、部誌に向かう阿部の後ろ姿はパイプ椅子に上で時折不機嫌に揺れている。
カタカタガタガタガタンガタン。
小さな揺れが段々と大きくなり、やがて耳障りな音を立てて止まると、つられたように三橋の釦を留める手も止まって――

「今日はせっかく早く終わったのに、何ぐずぐずしてんだよ!」
「う、ひっ!」

ふいに声が掛けられて、三橋が怯えたように飛び退くと、阿部が部誌の表紙を閉じて立ち上がったところだった。
黒い視線が向けられて、また逸らされる。
そんな短時間でも、釦を摘む指がつるりと滑ったのはしっかり確認したらしく「はぁ」と呆れた風な溜め息が落ちた。

「――帰っぞ」
「ふぁい!」


だが、幸いな事に短く告げられた言葉の意味を、三橋は正しく汲み取れるようになっていた。
語調こそぶっきらぼうだが阿部は怒っていない。背けられた顔も照れ隠しみたいな物で(たぶんだけど)、三橋が着替え終わるのをきちんと待っていてくれるつもりなのだ。
そういうわけなので、焦りの為いささか間抜けな返事をしながらも、三橋はさっきより遙かな熱心さで釦に取り組む事にした。

「も、もうちょっとでお、終わるからっ」
「・・・・・・ちょっと、ってどんくらい?」
「も、もうちょっと・・・・・・」

拙い答えにふうん。と鼻を鳴らすと、阿部は再びパイプ椅子に腰を下ろした。

良かった。阿部くん、待ってくれるつもりなんだ。

だが、如何せん、気持ちと動きが上手く連動してくれない。相も変わらず指先から逃げる釦は、事情を知らない第三者が見れば故意にしているようにしか見えなかっただろう。
急がば回れ。
ふいに頭に浮かんだことわざを振り払うようにして三橋は頭を振った。

「は、早く、は、まれ!」
「三橋。ちょっと待て」
「ふ、え?」


だが、三橋にとって幸いな事は、過ごした時間の分だけ阿部も三橋の行動を正しく判断出来るようになっていたのだ。

「焦らなくてもいいから。下から一個ずつ嵌めてけよ」

ずれてるぞ。と阿部に指さされた先を見ると、釦が一つずれてシャツにくたりと皺が寄っている。下がり気味の三橋の眉も更にくたりと下がった。

「ご、ごっご、めんなさい!」
「ほら――」

じっとしろ。命令というには優しすぎる阿部の言葉に、じん、と痺れが背筋を走る。そして、近づく固い指先がひどく器用に釦を留めている間、三橋は身動ぎ一つとれずにいた。
こんな距離、もう慣れた、と思っていたのに。
あっさり覆されてしまった。


だって、阿部の指が軽く触れるだけで、心臓が痛いくらいに飛び上がる。



◇◇◇






ゆっくりと日が落ちる。紅色の空に端から藍が混じり、奇妙だけど美しいコントラストに三橋は見取れていた。練習が長引いている時にはこんな景色に見取れる余裕もない。
鮮やかな紅が細く尾を引きながら反対に近い色に変わってゆく様は、まるで手品のようだ。陽光の残滓が消え自然に夜の帳が落ちてくると、合わせたように小さく白い光が瞬き始める。「星だ。」三橋の唇から無意識に呟きが零れた。




阿部が与えてくれる物の大きさに、時々目眩がしそうになる。
怒鳴る。笑う。叱る。触れる。
厳しく、優しく、時には甘さを纏って与えられる手に、息が詰まるくらいの幸せを感じる。こんな幸福を感じさせてくれるのはきっと彼しかいない、この先もずっと。
祈りにも似た想いを、口に出す勇気は持ち合わせていなかったので、三橋は精一杯の努力で微笑んで見せた。

「うひ・・・・・・」
「・・・・・・なに、その顔?」

訝しげな目線が返されただけだったけど、幸せな気分は少しも薄れなかった。



◇◇◇



「――そういえば、その歌、なに?」
「う、た・・・・・・?」
「なんか、最近部室とかでもよく歌ってるだろ」

ふ、ふ、ふん、「あの鼻歌」阿部が歌ったメロディには確かに聞き覚えがあった。

「え、と、この前音楽の授業でやってた・・・・・・」

曲名を告げると阿部はなぜだか奇妙な顔をした。

「阿部、くん?」

微かに震える口元を見つめながら三橋がこてんと首を傾げると、ついに耐えきれないと阿部は吹き出した。

「お前ってさぁ、ひょっとして――」

言いかけて、思い直したように口を噤むのは彼らしくない。なんで?教えて?目線で問いかけると、ほんのりと紅潮した頬を背けながら、阿部は口早に答えた。

「なんでもない、けど――とにかく!それ、人がいる所じゃ止めろ」
「止める?」
「ああ、止めた方がいい」

きっぱりと断言されてしまい、かといってその根拠は明らかにされないままで。三橋にしては珍しく「納得できない」と口をとがらせたのは仕方のない事だろう。それでも、明後日の方向を向いてしまった阿部は答える気も無いらしい。

「・・・・・・」
「・・・・・・」

ちょっとした沈黙が二人の間を通り過ぎる。でも、それは本当に僅かな時間だった。


「――あ、阿部くん?」
「何だよ・・・・・・」

態とらしく軽く咳払いをした阿部の手が、三橋の手に触れていた。故意か、偶然か、確認する間もなく硬い指が三橋の指に絡んでくる。
阿部くん。
呼びかけた声に応えるように、繋いだ手に力が籠もった。



◇◇◇



絡めた指の暖かさに心が浮き上がる。自然と鼻をついてでた歌に阿部が一瞬「おい」眉を顰めたが、すぐに柔らかい表情に変わった。

「三橋さ、やっぱりそれ俺の前だけにしとけよ」
「ふ、ん?」
「だって、お前の歌――」

珍しく言い淀む阿部を促すように、三橋は凝と見つめた。先ほどとは、少し雰囲気の違う沈黙。小さな溜め息とともに阿部はついに答えをはき出した。

「原型、留めてないんだよ・・・・・・」

だから、俺以外のヤツに聞かせるのが、すごく恥ずかしい。
要するにそれは、自分の歌がとんでもなく「下手」だという事なのだろうか。思いもよらない指摘に三橋の頬が鮮やかに染まった。

「・・・・・・そ、んなに・・・・・・?」
「ああ・・・・・・そんなに、だ」
「そんな・・・・・・」

返答の結果は、全く以て、絶望的だった。



◇◇◇




結局、理由を聞かせてもらえた事を喜んでいいのだか、理由そのものを悲しめばいいのだか、三橋には分からなかった。そして、そんな複雑な心境は、彼の顔を自然と俯かせる。

「まぁ、気にすんなよ。歌が下手でも、お前には九分割がある」
「う、う・・・・・・」
「歌が上手くなるより、試合で勝てる方が嬉しいだろ?」
「それは、そうだ、けど・・・・・・」

阿部の言う事も確かに間違ってはいないのだが、「歌」と「野球」では、そもそも比較にならないのじゃないか、とは三橋の内心の声である。

慰めてくれているだろう阿部の言葉も、今回ばかりは効果を期待出来ないようだ。


それでも、まぁ、いいか。と三橋は俯くのを止めた。


阿部が懸命にフォローしてくれているのは、充分すぎるくらい感じているし。言われた通り、歌よりも野球の方がずっと良い。
見上げた空に星が瞬くのを見て、阿部が「明日も晴れそうだな」と呟いた。

「あ、明日も練習頑張ろう、ね!」
「ああ、頑張っぞ」





歌うように。そして祈るように。三橋は緩やかに阿部の隣を歩いていく。
穏やかで幸せなこの時間がこれからも続くように。
明日から始まる新しい一日も、また一緒に球を追い、投げ、受け止めていけるように。





「ふ、」と鼻歌がこぼれ落ちた。







言い訳めいた

やっと、というか何というか、本当にお待たせ致しました!!音楽用語で〜、というリクエストに応えられていない自信はしっかりあるんですが・・・・・・なんとなく、雰囲気で 読み取って(汗)頂ければ幸いです!タイトルの伊語訳はかなり適当なので、その辺のつっこみはご容赦下さい〜。