【Don't cry baby】・30




【三橋 廉】


駈け上がる度に、金属で出来た階段は微かに揺れる。ら、ら、ら。鼻歌を歌いながらオレは自分の部屋を目指す。白い扉を開けて自室に飛び込むなり、オレは目的の物を探した。

「あ、あと、これも持っていかなきゃ!」

しっかりとした感触で右手の中に収まる硬球。左手に馴染むグローブ。ボールは阿部くんから最初に貰った物で、グローブは先週一緒に買いに行ったヤツだ。白球の少し汚れた部分を服の裾で擦ってポケットの中に押し込むと

『三橋―っ。準備出来たかー?』

外からオレを呼ぶ声がする。

「い、今行く、よー!」

勢いよく飛び出すと、空はどこまでも飛べるくらい高く澄んでいた。





「じゃあさ、ポジション確認すっぞ」

がりり。花井くんの手で地面に特徴のある形が描かれた。阿部くんが色々教えてくれたから、今はオレだって説明されなくても分かる。ぽつぽつと置かれた小石が内野、中央で丸く囲まれているのがマウンドだ。

「人数少ないからな、外野は無しでやるぞ。後、ポジションは適当にチェンジしても構わないから」
「とりあえず、オレと阿部はキャッチだよな」
「ああ、交代で頼むよ。阿部が攻撃の時は田島がマスクで、ピッチャーは、俺と三橋だな」

花井くんがマウンドを模した部分に、小石を二つ置いた。まだ一球も投げていないのに、その小石を見ているだけで胸が騒いで落ち着かない。

「花井はともかく、三橋は初めてなんだろ。大丈夫か?」
「こいつは大丈夫だよ」

水谷くんの心配そうな意見ももっともだと思う。阿部くんは太鼓判を押してくれたけど、俺は正直自信が無い。投げられるなら投げたいけど、誰かが立っている打席に向かって投げ込むのは初めてだったから。

「阿部が大丈夫ってんなら、大丈夫だよな。なぁ」
「――三橋は俺と組むから」

田島くんの言葉を遮るようにして阿部くんが俺の前に立つ。

「えー、なんでだよ!?オレだって三橋の球とってみたいんだけど」
「お前は花井の球とればいいだろ。三橋のは俺」

どうやら阿部くんは、あくまで譲るつもりがないみたいだ。田島くんが口を尖らせているのも気になったけど、オレはそれよりも花井くんの方が気になって仕方がなかった。
オレの所為で、気を悪くしていたらどうしよう。
オレは阿部くんと田島くんに取り合いをされるようなすごい球を投げられるわけじゃない。野球だって、ちゃんとやるのは今日が初めてだし。阿部くんはオレの球を「すごい」って言ってくれるけど、自信なんて全然無かった。

「は、花井く、ん・・・・・・あの」

恐る恐る顔を上げて、ちらと様子を伺った。

「三橋、気にしなくてもいいかんな」
「え・・・・・・」
「別にあれくらい、あの二人はいつもあんな感じだろ?」

オレの予想を裏切って、花井くんは笑っていた。そして花井くんの言葉通り、阿部くんと田島くんの言い争いはなかなか決着がつかない。


「だーかーら、三橋の球は慣れてる俺がとったほうがいいんだよ!」
「阿部ずりぃ!オレだってゲンミツに三橋の球とれるもんね!」
「とれるだけじゃ意味ねーんだ!!」


本当に、いつまでたっても終わりそうになかった。
始めのうちは苦笑していた花井くんも、眉間の皺がだんだん深くなる。阿部くん達は気づかない。それどころか一段とヒートアップする二人の遣り取りに、花井くんの目付きも段々険しくなった。

「――おい。阿部、田島」

押し殺した低い声が二人の名前を呼んでも、こっちを振り向くことさえしないのにはちょっと驚いたけど。


「阿部!田島!!」


花井くんが出した大声には、もっと驚いた。

「う、ひっ!!」
「あ、悪ぃ三橋!お前に怒鳴ったわけじゃないから」
「何、無駄にでかい声だしてんだよ、花井!」
「お前と田島が、いつまで経ってもしょうもない事で揉めてっからだろ!」
「――ちっ」
「あ!三橋、ごめん!」

不機嫌そうに舌打ちした阿部くんも、田島くんがオレに謝ったのを見るなり「悪かった」と頭を下げてきた。どうしよう、そんなつもりなかったのに。


「あ、あ、あやまら、なくてい、いいいい!」


なんとかフォローしようとしてみたけれど、やっぱり駄目だ。焦れば焦るほど失敗する。(実は、さっきのショックをちょっと引きずってる所為もある。)

「あ、ああああ、え、えええとっ!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」

それでも必死で言葉を繋ごうと声を張り上げれば、阿部くんと田島くんと花井くんの視線が、凝とオレの上に集まった。居心地の悪さに思わずもぞもぞと尻を動かすと、途端にぶはっと、と盛大に吹き出す声が聞こえてきた。


「・・・・・・あ、べくん?」


吹き出したのは阿部くんで、その隣の花井くんは何故かオレから顔を逸らしながら肩を震わせている。どうして?なんで?神様だったらオレの頭上を飛び回る無数の疑問符を見れたかもしれない。

「大丈夫だから、三橋っ!」
「っ!!」

今度は、かなりの衝撃で肩が叩かれる。慌ててそっちに目を向けると満面の笑みを浮かべた田島くんが、いつの間にか手に持っていたボールを手渡してくれた。

「お前がピッチャーだ!で、今日のキャッチは阿部に譲ってやる」

だから、次の試合はオレに投げてみろよ。と晴れやかに言い切られて「う、うん」オレも反射的に頷いてしまう。その後でまた阿部くんが何か怒鳴ったり、花井くんが吹き出したりと色々あったけど、

今日の「野球」は、そんな感じで始まった。








投げる事にオレが生きる意味を持たせてくれたのは「仕事」だった。
投げた球をとってもらえる事が、本当に嬉しい事だと教えてくれたのは阿部くんだった。

マウンドで大きく息を吸うと、オレはホームベースで構えている阿部くんに視線を合わせた。簡単なサインに頷くと、彼の顔が微かに笑ったみたいに見えた。

『大丈夫だから。お前は、思いっきり投げろ』

届くはずもない言葉が聞こえた気がした。

「阿部く、ん」

――思い切り、投げよう。

打席に入る花井くんの長身を見ながら、オレの全身は仕事では決して感じられない心地よい緊張感に満たされていた。






□□□





汗ばんだ肌に、涼しい夜風が気持ち良い。
家の近所のコンビニに寄ると、もう大分見慣れたアルバイトの人がレジで笑いかけてくれる。

「今日、随分遅いっすね」
「そ、そっか、な」

何処か遊びに行ってたのか、と尋ねられて「友達と野球をしてた」と答えると目を丸くされた。

「すごく楽しかった、よ」

小さな電子音とともに、ペットボトルのミネラルウォーター、サンドイッチ、ポテトチップスが白いビニール袋に入れられる。夕ご飯は野球の帰りに阿部くん君達とラーメン屋に寄ったから大丈夫。これは明日の朝ご飯にする分だ。
身体をよく動かした後特有の倦怠感さえ気持ち良くて、少し重たい足でもアパートの階段を駆け上がれた。
でも、部屋のノブに手を掛けた時――微かな違和感が肌を刺した。


「・・・・・・っ」

誰もいないはずの部屋に、人の気配がする。留守の間に修ちゃんが来たのかもしれない。

――でも、もし違ったら。

僅かな判断の過ちが、命取りになる。腹の底に堪り始めた冷たい緊張感が、指先から全身へ急速に広がってゆく。息を詰め、掌をきつく握りしめると、オレはゆっくりと扉を開けた。




「よお、久しぶりだな。廉」

黒い長身がゆらりと立ち上がる。
部屋の中に座っていたのは、修ちゃんじゃなかった。












「は、榛名さ、ん!」

馬鹿みたいにぽかんと口を開けて、でも次の瞬間オレは飛び上がっていた。
季節外れだけど、昔から見慣れた黒いコートを羽織ったまま榛名サンが俺の部屋にいる。最後に会った時よりも少し伸びた前髪を鬱陶しそうに払いのけて笑う顔に、悪びれた素振りは無い。普段は鋭く見える目元が、笑うと糸みたいに細くなった。

「お前、留守みたいだったから勝手に上がらせてもらったんだけど」
「あ、う、うん」

鍵なんて、この人にとっては無いも同然だから驚くに値しない。それよりも、榛名サンがこの街にいるって事にオレは驚いていた。

「なんで・・・・・・榛名サン、が、ここにいるん、だ?」
「あ、ああ、それな。今週は仕事がオフなんだ」
「そっか・・・・・・」

なんとなくほっとする。榛名サンの仕事の内容は、オレの仕事とは少し違う。なんとなく修ちゃんから聞かされていたけれど、知るのが怖いからはっきりと聞いた事も無い。

「なぁ、廉。俺さぁ・・・」

オレより年上なのが冗談のように、甘えた口調で榛名サンはごろりと床に寝そべった。ラグの毛足を弄る仕草は、まるで暖かい絨毯の上に寝そべった特大の猫みたいだ。

「な、なんです、か?」
「俺、腹、減った」

手に持ったビニール袋の中で、コンビニの買い物がごそごそ鳴る。サンドイッチ、ポテトチップス、でも、きっとこんな量じゃ足りない。

「あ・・・・・・、昨日のカレーの残り、ならあるけど・・・・・・」

思い浮かんだのは、冷蔵庫の中で鍋ごと冷えている前夜のカレー。ご飯は・・・・・・阿部くんがこの前冷凍していってくれた分で間に合うかな。頭の中でご飯とカレーのバランスを計算する。ぎりぎり間に合いそうな足りないような不安な分量だ。

「カレーでいい!カレー喰いたい!!」

でも、勢いよく起きあがった榛名サンがローテーブルを引き寄せるのを見て、オレは慌てて台所に駆け込んだ。

「このカレー、マジ旨い!お前、料理の才能あったんだな!」
「え、あ、ありがとうございます・・・・・・」

山盛りのカレーライスをかきこみながら榛名サンが破顔した。本当は殆ど阿部くんが作ったんだけれど、その事は言えなかった。

「良かったら、これも・・・・・・」
「あ、うん。さんきゅ」

少し残っていた福神漬けを小皿で勧めると、あっという間になくなってしまう。そして数分でカレーのお皿も空になった。すっかり綺麗になったお皿を名残惜しそうに眺めている横顔を見ながら、オレはさっきからずっと引っかかっていた事を口にした。

「榛名サン・・・・・・あ、あの」
「なんだよ?」
「なんで、ここ、に・・・・・・」
「だからオフだっていったじゃん。たまの休みだから可愛い後輩の顔見にきたんだよ」
「本当、に?」
「ああ、本当だ」




きっぱりと言い切られてしまっては、オレにはそれ以上何も言えない。
釈然としない気持ちが残っている事は、気づかない振りをする他なかった。








to be continued・・・